
05/05/2025
♯あくまで、個人の感想ですが。
#6 ナンシー関再評価に感じる「論者推し」の違和感
最近、メディアに対する不信感からか、一部の人々の間で『ナンシー関』の発言を再評価する声が上がっている。ナンシー関に限った話じゃないが、『ひろゆき』にしろ、『中田敦彦』にしろ、『小泉今日子』にしろ、この国の人は揃いも揃ってどうして発言力が強い個人を「推し」のように崇拝するのか。その姿はまるでカルト教団の信者のようでなんだか気味が悪い。自分の頭で考えず脊髄反射で誰かの意見に乗っかるのは、望んで独裁国家にするのとなんら変わらないのではないか。
ナンシー関(本名:関直美 2003年没)は、90年代〜00年代初頭にかけて雑誌媒体で活躍したコラムニストである。「目を皿のようにして見る。そして見抜く」という独特の観察眼による「テレビ批評」に、著名人の似顔絵を掘った「消しゴムはんこ」を添えるスタイルで人気を集めた。
偏見も承知でいうと「批評」と聞くと、眉間にシワを寄せたいかにも「有識者」なる人がワイドショーで小難しい話しをするイメージがある。しかし、彼女のコラムからはそんな雰囲気は一ミリも感じられない。例えるなら、こたつにあたってテレビを見ながら『あの女優さんだいぶ老けたワネ』とぼやいてるあの感覚。ナンシー関の『テレビ批評』が多くの読者の支持を得たのは、そんな世間話程度で終わってしまう違和感を丁寧に噛み砕いて言語化した点にあるのだと思う。
今でこそ「一般人の発言がメディアに影響を与える」なんて珍しくもなんともないが、当時はSNSどころかインターネットすら浸透していない。その時代に「メディアに物が言える一般人」である彼女の存在はさぞ多く人の注目を集めたに違いない。考えようによっては、今のインターネット言論空間の基礎はナンシー関が作ったと言っても過言ではない。(※あくまで個人の感想です)
ただ、その功績と彼女を絶対的な存在として「推す」かはまた別の話しだ。逆にナンシー関の発言自体を安易に肯定するのは危険だと思っている。いくらテレビとはいえ、世間が見向きもしないネタを延々と垂れ流しはしないし、『テレビ批評』を主軸にする彼女がテレビが映さない問題を知らないのはむしろ自然なこと。それに、時代背景や社会情勢も90年代と今とではだいぶ違う。どれだけ彼女のコラムが共感を得たとしても、時代が変われば非常識だったり古臭く感じるのは当然だ。過去を学ぶことはあくまで今をよりよくするためであって、面白半分に都合の良い部分だけを称賛し、都合の悪い部分をこっぴどく叩くのとは少し違うのではないか。
今は、「推し活」という言葉が示すように、とにかく前のめりに熱中することだけが評価されがちになる。ただし、ありあまる熱量はときに狂気になることを忘れてはいけない。芸能人だろうが、Vtuberだろうが、特定の配信者だろうが、相手も感情を持った個人である。あんな狂気染みた熱量で推されたら「自分は絶対的な存在」だとうっかり勘違いするのも無理はないだろう。元より『推し活文化』は「未熟な存在からの成長物語」が売りだ。未熟であればあるほど、不安定であればあるほど物語が生まれコンテンツとしては成功しやすい。そして、その未熟さはときに一線を越える要因にもなる。度重なる不祥事のニュースを見ていると、そんな心理状態が垣間見えてなんとも痛々しい気持ちになる。結局、推す側も推される側も不安定なことには変わりない。応援するのは結構だが、過度な熱量は相手にとって重圧になるか却って調子に乗らせるかのどちらかしかないのだ。好きだからこそ「推さない」判断も時には必要。まあ賢いファンなら、とっくに対策しているだろうけども。
ながみね
山梨で生まれてから一度も県外に出たことがない人。『ザツダン』というフリーペーパーを2ヶ月ごとにネットプリントで配布してます。興味関心だけで生きてるような人間です。
グッズや投げ銭には何万円も使ってる人が物価高を嘆くってなんか矛盾してる気がするのは私だけですかね。
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