24/08/2024
タンザニアとの合作で企画を進めている映画は、戦国時代末期の日本で、織田信長に仕えたアフリカ出身の青年「弥助」の物語です。近年、海外を中心に知名度を高めた弥助ですが、これまでにあったフィクションとは、まったく異なる視点で描いた作品にしたいと思います。以下は、そのストーリーの概要です。
タンザニア南東部の海岸沿いに浮かぶキルワ島には、ユネスコの世界遺産に登録されている石造りの遺跡群がある。
この島には10世紀から16世紀かけて、インド洋交易の拠点として繁栄した東アフリカ沿岸部最大の都市国家『キルワ王国』が存在していた。全盛期にはスワヒリ海岸一帯を支配していた王国だったが、16世紀初頭に東アフリカ沿岸部に進出したポルトガル艦隊の侵略を受けて衰退していく。占領を受けたのちにポルトガルの朝貢国となっていたキルワ王国は、1587年に突如として内陸部から攻め込んできた武装集団の破壊と殺戮によって遂に滅亡する。
島民4000人のうち3000人を殺害し、キルワ王国を一夜にして滅ぼしたのは、アフリカ内陸部のバントゥー系民族という以外は正体も襲撃の目的もまったく不明の謎の集団だった。
当時の最新の火器で武装したポルトガル軍をも打ち破った先住部族の軍団は、略奪者を意味する“ジンバ”という名で呼ばれて怖れられた。ジンバはキルワ王国を滅ぼしたのち、ポルトガルが交易拠点を築いていた都市や村を次つぎに襲撃しながら東アフリカを海岸沿いに北上していった。そして到達した海港都市のモンバサを攻略し、つぎに向かったマリンディの交易広場で待ち伏せていた傭兵部隊のセゲジュ族に敗れて、ジンバ軍は全滅したとされる。
16世紀末の東アフリカに彗星の如く現れ、略奪と破壊の限りを尽くして、謎に包まれたまま歴史の闇に消えたジンバ。彼らが通ったあとには生き物は残らないと言われ、当時、ポルトガル領モザンビークに滞在していたドミニコ会のポルトガル人宣教師のジョアン・ドス・サントスは、その著作の中にこう書き記している。
「ジンバ族は、戦争で殺した男性を食べるだけでなく、余剰の肉を市場で売っている」
恐怖の象徴としてポルトガル人に語り継がれた伝説のジンバを指揮していたのは、自ら“魔王”と名乗った男だった──。
現在の日本。歴史マニアの刀剣女子で派遣のツアーコンダクターとして働く凛子は、ハリウッドドラマ『SHOGUN 将軍』のヒットに便乗した日帰りバスツアーの添乗を任された。ドラマの原作小説のモデルは、徳川家康と、その外交顧問として仕えたイングランド人航海士のウィリアム・アダムスという歴史上の実在の人物。凛子が引率したのは、三浦按針(みうら あんじん)の日本名を与えられていたアダムスゆかりの地をめぐる横須賀市周辺のツアーだった。
そこで、日本最初の外国人サムライは白人だと誇る白人観光客と、「弥助のほうが先だ」と反論したアフリカ系の観光客とのあいだで言い争いが勃発。仲裁に入った凛子だったが、結論は出せなかった。按針が日本に漂着したのは1600年。織田信長が弥助と称するアフリカ出身の外国人を召し抱えたのは、その19年前のことだ。弥助のほうが先ではあるが、サムライという称号が適切かどうかは、凛子も確証がもてなかった。按針は250石の采地を与えられた旗本だったが、一方、弥助には武士身分の証となる姓氏すら確認できる史料が残されていないからだ。
しかし、信長がイエズス会巡察師の従者だったアフリカ出身の青年を譲り受けて召し抱えていたこと。そして、その青年は巻き込まれた『本能寺の変』で信長が自刃して果てたあと、織田家の家督を継いでいた織田信忠を守るべく、向かった二条新御所で明智光秀の軍と戦ったことがイエズス会の記録に残されている。
観光客の論争をきっかけに、あらためて弥助について調べはじめた凛子は、弥助の出自と消息を探る手掛かりとなる女性とインターネットで知り合う。
ザキアという名のその女性は、タンザニア南西部に住むトゥンブカ族だった。彼女は、自分の家には、先祖はポルトガル人も恐れた戦闘集団を率いて“魔王” と呼ばれた人物だとする口述伝承があるという。そして、その “魔王”は、日本からアフリカに帰ってきた弥助だったのではないかとザキアは考えていた。
戦国時代末期の日本。イエズス会の東インド管区巡察師のアレッサンドロ・ヴァリニャーノが 、肥前国の口ノ津港(現在の長崎県島原半島)に上陸したのは、1579年のことだった。
ヴァリニャーノは、来日前に滞在していたポルトガル領インドのゴアから、ひとりの黒人青年を従えてきていた。青年は、子どもの頃にアフリカ東海岸から売られ、戦闘訓練を受けて育てられた軍事奴隷だった。
出生時の本名は不明。彼が生まれ育った部族では、成人するとすべての男が戦士となる。そして戦士となった男たちは古い名を捨て、長老らから新しい名を授かるが、子どもの頃に奴隷としてゴアに売られた青年には戦士としての名がなかった。そのため青年は、ゴアで武術を学んだ日本人の奴隷兵から “YASUKE”という名をもらっていた。
16世紀のゴアには、多くの日本人奴隷が暮らしていた。当時、人口100万人ほどのポルトガル王国が、インド洋に築いた海上覇権を維持するためには、人的資源の供給を必要とした。それをポルトガル海上帝国は奴隷によって補っていたが、そのなかでも、日本人奴隷の男は戦闘力に優れていたことから奴隷兵とされることが多かった。YASUKEの名付け親となった男も、九州地方の下級武士出身の軍事奴隷だった。
日本に上陸したYASUKEが最初に目にした光景は、少年の頃の忌まわしい記憶を蘇らせた。戦乱の世の日本では、半農半士の雑兵たちが戦争捕虜だけでなく、民家を襲って女子供を戦利品として捕らえる乱妨取りが横行していた。捕らえられた者たちは二束三文の値で売られ、ポルトガルの商船に積みこまれて奴隷として海外へ運ばれていく。
当時の奴隷貿易は、ポルトガルの独壇場となっていた。そして、その構図はYASUKEが生まれ育ったアフリカも、遠く離れた東の果ての国もまったく同じだった。奴隷狩りを行うのは敵対関係にある同胞。捕らえられた人びとは海岸地帯で仲買人に売られ、最後は買い付けたポルトガル人が異国へ連れ去っていく。そんな奴隷貿易の拠点となっていたのは、ポルトガルに植民地化された交易都市だった。
ヴァリニャーノが1580年、肥前国の有馬晴信(ありまはるのぶ)の領地にセミナリヨ(小神学校)を開くと、晴信の叔父でキリシタン大名の大村純忠(おおむらすみただ)は長崎の地をイエズス会に寄進。奴隷売買を含む南蛮貿易の中心地は教会領となった。
その翌年、上洛したヴァリニャーノが織田信長と謁見した際、同伴していたYASUKEを信長が召し抱えることになる。
平安時代より王城鎮護の聖域とされてきた比叡山を焼き討ちし、みずから“第六天魔王”を名乗るなどした信長は、衆人を畏怖させる存在だった。しかし、YASUKEにとっての信長は、身分や出自で人を分け隔てることなく、弱者に温情を施す主君だった。信長は、足軽にも俸禄を与えて兵農分離を行うことで、人身売買の温床となっていた雑兵による乱妨取り防ぎ、またこれを禁じて厳しく取り締まった。奴隷出身のYASUKEは、そんな信長を尊敬してやまなかった。
だが、仕えてからわずか1年あまりのちの1582年6月、YASUKEは主君を明智光秀の謀反によって失うことになる。YASUKEは明智軍と戦ったが、光秀の家臣の説得に応じて投降する。捕虜となったYASUKEを光秀は殺さず、本能寺のすぐ近くにあったイエズス会の教会堂『南蛮寺』に帰すよう部下に命じた。
YASUKEが『本能寺の変』を生き延びたことは史実として確認できる。しかし、その後の消息を知る手がかりとなる史料は一切ない。変のあと、京の町を軒並み家探しして、生き残っていた信長の手勢の首をことごとく跳ねさせた光秀が、なぜYASUKEを殺さなかったのか。その理由を推察した結果、凛子はYASUKEが故郷のアフリカに帰った可能性を見いだす。
ジンバがキルワ王国を襲撃して滅亡させたのは、本能寺の変から5年後のことだった。
タンザニアのザキアは、先祖は子どもの頃に集落を襲った奴隷狩りに一族を滅ぼされ、ザンジバルの奴隷市場で売られて海の向こうへ送られた。だが、成人してアフリカの大地に舞い戻り、スワヒリやポルトガルの奴隷商人から先住民を救う英雄となったという言い伝えを信じていた。そんな伝承を裏付ける証拠が残されているというザキアに会うため、凛子はタンザニアへ飛ぶ。