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■ 月刊シリーズとは?
1988年11月、新潮社から業界初のムック型写真集として「月刊永作博美」を発売。フリープロデューサーのイワタと新潮社の編集者であった宮本和英のコンビによって生まれたこのシリーズは、以来、12年にわたり、数多くの人気女優をキャスティングし、多くの話題を提供してきました。
「月刊シリーズ」は、女優タレントが写真家とセッションして今までにない写真表現を生み出していく場所となり、2010年までの12年間に137冊が刊行されました。

■月刊NEOへ 月刊MENへ
2011年1月、月刊シリーズは、より自由な形で、女優という表現者、写真家をはじめとするクリエイターがセッション出来る場となることを目指して、「月刊NEOシリーズ」として再発進しました。
さらにこの女性シリーズに加えて、人気男優を迎えて展開する「月刊MENシリーズ」も2011年4月からスタート。
さらに様々なクリエイターが参加して、「gekkan」グループは、写真表現の場として、進化し続けます。

Welcome to Gekkan NEO and MEN’s page! Gekkan series is one of the pioneers of Japanese visual mook and expand the beautiful and high-sense visual collaboration by Japan's top photographers and famous actress and actor.We have specialized in bringing this page's readers the latest news about Gekkan NEO and Gekkan MEN series. We have started the delivery of Gekkan NEO and MEN e-book version and you can get Gekkan NEO and MEN, wherever you may be in. http://booklive.jp/search/keyword/p_id/332

宮本和英 「二流編集者の回想記」第9回 作家と担当編集者(順番を変えて)瀬戸内寂聴追憶➀月刊デジタルファクトリー主宰者の宮本和英の回想記です。 この11月9日(2021年)に瀬戸内寂聴さんが99歳で亡くなられた。 横尾忠則さんとの『週刊朝日...
21/08/2026

宮本和英 「二流編集者の回想記」第9回 作家と担当編集者(順番を変えて)瀬戸内寂聴追憶➀

月刊デジタルファクトリー主宰者の宮本和英の回想記です。

 この11月9日(2021年)に瀬戸内寂聴さんが99歳で亡くなられた。
 横尾忠則さんとの『週刊朝日』での往復書簡を、体調不良ということでしばらく休まれていたけれど、すぐに回復されるものと思い込んでいたし、99歳の今までずっと現役作家として健筆をふるわれていたから、瀬戸内さんが亡くなるなんて考えないようにしていた気がする。百歳を超えて書き続けていくと信じていた。
 訃報に接して唖然としながら、あとからあとから思い出されることが溢れてくるので、今回、この回想記の順番をとばして、瀬戸内さんとの思い出を書いておきたい。

 僕は新潮社の後半の十数年は、『nicola』とムック写真集「月刊シリーズ」にほぼ専念していて、その関係者との付き合いがほとんどだったから、稀に瀬戸内さんの担当編集者だったことがあるという話をすると、たいてい驚かれる。僕の仕事のイメージと結びつかないのだろうし、自分でもそうだろうなと思う。

 そういえばつい最近も、関西出身のアパレルメーカーの熱血社長と話していて、何かの拍子で瀬戸内さんのことが出て、「昔、瀬戸内さんの担当編集者だった」と言ったとたん、その社長が「えーっ、瀬戸内さん、なんで今まで言ってくれないんや、僕の永遠のテーマなんや、何とかして繋いでほしいぃー」と叫んだので吃驚したことがある。そのアパレルメーカーの製品と瀬戸内さんに接点があるようには思えないので、瀬戸内さんに何を頼みたいのか聞くと、
「そうや、そうや、それが問題なんや、でも瀬戸内さんと繋がれたら、自分、完結するって思ってるんや」と言う。
 ちょっと神がかり的な話になりそうだったけど、とにかく社長の中で瀬戸内さんは特別な存在らしい。作家、僧侶という肩書を超えて、瀬戸内さんは人々に元気を与える不思議な存在になって、意外な人たちにまでその人気を及ぼしているらしい。

 僕の編集者人生で、文芸ジャンルでの作家担当というのはたった3年間の短い経験でしかない。筋金入りの文芸編集者たちからすれば、そんなものは経験などと言えるようなものではないのだが、瀬戸内さんとはその始まりの状況がなかなか難しいものだったので、僕の中で瀬戸内さんとの約3年の担当期間は、異色の体験であり、濃く、特別なものがあるのだ。

 1994年4月、入社から14年間在籍した『芸術新潮』編集部から、出版部に自ら望んで異動した。写真集やビジュアル書籍を手がけたいという思いからで、それを認めてもらっての異動だったが、出版部は、文芸出版社としての新潮社の要の場所である。その一員になった以上、写真集などを中心に手掛けるにしても、何人かの作家の担当も持つようにと言われ、瀬戸内さんを担当することになった。
 瀬戸内さんはすでに大物作家だったから、文芸の右も左も分からない新米出版部員の僕になぜ?と戸惑ったし、荷が重いなあというのが偽らざるところだった。

 少し事情が分かってくると、新潮社での瀬戸内さんの作品刊行は、90年の「わが性と生」(瀬戸内寂聴・瀬戸内晴美名義)、91年の「手毬」以降、進んでいる企画がなく、また瀬戸内さんと親しかった年輩の編集者も文芸部門から離れて久しく、要は、瀬戸内さんのことを真剣に考えている編集者が出版部にはいなかったのである。だから僕などに担当が回ってきたのだ。

 文庫編集部で瀬戸内さんを担当していた杉野加代子さんは、僕が異動してきた年に前述の2冊の文庫化を果たして、その後がないことにやきもきしていて、出版部がもっと瀬戸内さんのことを考えてくれないと困るとこぼしていた。出版部の僕の前任者は、文芸生え抜きで、売れっ子作家を何人も担当していたから、京都にいる瀬戸内さんにまで手が回らなかったという事情もあったようだ。

 ともあれ異動して間もない6月9日、京都嵯峨野の寂庵に、前任者と共に担当替えの挨拶に出向いた。
 初めてお目にかかったときの瀬戸内さんは、はっきり言って、とてもよそよそしかった。新潮社との関係がこの数年ただでさえ希薄になっていて、新たな担当者が小説家と付き合ったこともない文芸の素人だったのだから、がっかりもしたのだろう。それは新潮社が自分のことを重視していないという姿勢だと思われても仕方ないことだったかもしれない。
 結局、話は盛り上がらず、早々に寂庵を辞することになったのだが、「まいったなぁ」というのが帰り道での僕の思いだった。打開策も思いつかず、途方に暮れるという感じだった。

月刊デジタルファクトリーを運営する宮本和英がnote で連載中の「二流編集者の回想記」をこちらでも掲載します。お暇なら読んでください。第8回 ガーン!共同通信社、断念! 新潮社と共同通信社に応募することにして、さらにテレビ局のTBSにも応募...
14/08/2026

月刊デジタルファクトリーを運営する宮本和英がnote で連載中の「二流編集者の回想記」をこちらでも掲載します。
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第8回 ガーン!共同通信社、断念!

 新潮社と共同通信社に応募することにして、さらにテレビ局のTBSにも応募した。ここは応募者全員に社員の紹介を義務付けていたが、要するに、マスコミを希望するような者は何とかツテを探してTBS社員にたどり着くぐらいの才覚が必要ということらしかった。これも知人の知人にTBSの方がいたので、それで応募。
 あとは大手出版社2社と新聞社1社の書類選考に通った。また採用人員が多いので広告代理店の電通にも応募した。
 出版社は若干名の募集、TBSは20名程度、新聞社の記者部門はもう少し多く50名前後だったと思う。それに比べると電通は100名程度の募集で、おそらくかなりの人数が大手スポンサーや電通が関係するメディア企業の幹部の子弟達で占められるのだろうけれど、単純に他のマスコミ企業よりは採用人数が多いという理由から応募した。

 10月中にそういう準備をして、11月に始まる筆記試験の日程を待った。これがなんとも問題で、11月頭に試験日が集中するので、必ず日程が重なってしまう。せいぜい3社ぐらいしか受けられないのだ。
 僕の優先順位では、新潮社、共同通信社、TBS、あとは採用人数の多い電通と考えていた。ただ新聞社や通信社は主流が社会部や政治部、経済部というところだろうから、学芸部向きの藝大生の僕にはハードルが高いと思っていたし、地方勤務が必ずあるのも少し躊躇させた。また出版社やテレビ局の場合は、本作りや雑誌作りと番組作りの根底には共通するものがあるのではないかと思っていたが、新聞社や通信社は基本的に事件対応型だし、いずれ発表されることを事前に血眼でスクープ合戦するという記者カルチャーも果たしてどうなんだろうという気がして、優先順位は後ろかな、とも思った。
 とはいえ僕の場合、マスコミ志望とはいっても何の考えも準備もなく、ただ就職するためのマスコミ志望といういい加減な動機だったから、受かればどこでもいいと思っていたというのが実のところだった。実に情けない学生でありました。

 そして案の定、試験日程が発表になると、いくつも日程が重なった。TBSと電通は別日だったので、新潮社以外の出版社や新聞社と重なったが、そちらは受験を取りやめることにして、問題は新潮社と共同通信社が同じ日時になってしまったことだった。
 どちらも人のお世話になって応募していたのだから、とても困った。困ったといっても試験を通る保証は何もないのだからこの段階で困っても仕方ないのだが……。

 結局、迷った末に新潮社を受験することにして、共同通信社を断念することしにした。白浜仁吉郵政大臣の事務所に電話を入れて秘書の方に事情を話して謝罪し、共同通信社の西山武典常務理事には直接謝りに行った。
 西山さんは、試験日が重なってしまい新潮社を第一志望にすることにしたという僕の話を聞くと、
「そうか、それで新潮社は入れてくれるって、言ってるの?」
 一瞬、何を言われているのか分からなかった。就職試験はまだこれからなのに……。
「いえ、試験を受ける、ということなんですが……」
 西山さんはちょっと考えたような間をあけて、
「うーん、残念だなあ、……実は君にはうちに来てもらおうと思っていたんだよ。一応試験は受けてもらうけど、君は大臣の紹介もあるし、うちの倉田編集委員とも知り合いだしね」
 えっ、えっ、えっ! どういうこと!? 
 頭がパニックになった。何と答えていいのかも分からず、でも今さら「やっぱり共同通信にします」なんて言えないから、
「本当に申し訳ありません」とだけ言って辞した。

 虎ノ門の共同通信社のビルを出たときの、あの茫然自失状態の自分のことを今でもよく覚えている。「最初に言ってくれよぉ……」というのが偽らざる気持ちだった。
 共同通信社を含めてマスコミ企業はどこも何十倍、何百倍という競争率らしいことは薄々分かってきていたから、自分が受かる自信など、どんどんなくなってきていたし、もし共同通信社に入れるのならば、こんなに有り難いことはないのだ。
逃した魚は大魚だった!

 改めて考えてみると、西山さんはどういう意味でおっしゃったのだろうか。
「一応試験は受けてもらうけど」とはいえ、試験の出来が悪ければやっぱり採用されないだろうし、共同通信社と新潮社を天秤にかけて新潮社を選んだ学生に、ちょっと嫌味で言ったのかもしれない。
 いやいや、西山さんは怒っているようには見えなかった。最初に会ったときと同じように、淡々とした口調だったから、言葉通りだったのかもしれない……。
 とにかくもう悔んでも手遅れだった。
 結局、試験日程から、新潮社、TBS、電通の3社の一次試験を受けることにした。

 ちなみに一年後、新潮社の「新潮三賞受賞式パーティ」の会場で西山さんの姿を見つけて、飛んで行って挨拶した。西山さんはニコニコ微笑みながら「おっ、ちゃんと新潮社に入ってたんだな」と。

 なんだか約束を果たしたようなホッとした気持ちになったのを覚えている。

07/08/2026

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第7回 白浜仁吉郵政大臣と共同通信社

同じころ、九州の関係会社に出向していた父から電話があり、地元選出の自民党の衆議院議員で郵政大臣を務めていた白浜仁吉さんが就職の件で会ってくれるから、衆議院議員会館の事務所に行ってこい、というのだ。父が政治家と付き合いがあるなどとは聞いたこともなかったが、地方の企業などは地元の政治家との関係も近いのだろう。当時は私立大学の入試や就職に政治家先生の口利きというのはよく聞く話ではあったが、まさか自分にそんな話が来るなど思いもよらず、
「えっ、でもマスコミ志望の人間が政治家の口利きというのはまずいんじゃないの?」
「マスコミのことは分からないが、会ってくれるというのだから行ってみたらいいじゃないか」
 どういう関係なのか聞いたら、出向先の企業の関係で遊説などのアレンジをしたらしい。要するに、父が有力支持者なはずもなく、会社の関係で面識を得たということで、その程度のことで相談に乗ってくれるというのが半信半疑だったが……。いずれにしても衆議院議員会館などというところに足を踏み入れる機会など今後あるかどうかも分からないし、後学のために伺ってみるのもいいかと思った。
 ということで、後日アポイントを取って永田町の議員会館に出かけた。

 議員会館の事務所には、白浜さんと、いかにもベテランという感じの女性秘書がいた。緊張しながら最大限丁寧に挨拶申し上げるや、白浜さんが、
「それで、どういうところを志望してるの?」
「僕は東京藝大なので、ふつうの企業は考えられませんから、やはりマスコミを志望しているのですが……」と答えると、すぐさま、
「じゃあ、共同通信はどうだ?」
「はぁ……」共同通信社の編集委員の倉田保雄さんのことをとっさに思い出して、
「知っている方がいます」
「じゃあ、電話してあげるから」とその場で電話してくれて、
「常務理事が会ってくれるから行ってきなさい」と簡単に話が進んで、やはり政治家と新聞記者は近いのだなあと、何か裏側の世界を垣間見たような気がした。
 白浜さんはもともと医者で、陸軍軍医として長崎に赴任中、原爆で被爆、夫人と二人のお子さんを失うという悲劇にあった方で、戦後、長崎県議会議員を経て1952年衆議院議員に当選し、78年第一次大平正芳内閣で郵政大臣になった。ただの学生の僕にも偉ぶったところがまったくなく、いかにも気さくで、ちょうど昼時だったので昼ご飯を誘ってくれて議員会館内のレストランでカレーライスをご馳走してくれた。僕は初めて政治家、それも現職大臣に会うという経験にすっかり緊張していたので、食事をしながら何を話したのかまったく覚えていない。議員会館を出て、一気に疲れが出たのを覚えている。

 虎ノ門にあった共同通信社では西山武典常務理事が会ってくれた。温厚そうな方で丁寧に一学生の話を聞いてくれて、
「11月に筆記試験があって一般教養と英語、それを通ったら面接という段取りになるから」と説明され、応募書類をもらった。とくに大臣の紹介だからというようなこともなく、当たり前と言えば当たり前の話で、最終まで残れば多少は大臣のコネが効くのかなと想像したけれど……。もちろん、試験前に常務理事に会えること自体が特別なことだったのだが。西山さんは後に知ったが、新聞報道に関する著作や、通信社の歴史に関する編纂資料などの編集をされていて、地味ながら貴重な仕事をされていた。編集委員の倉田保雄さんを存じ上げていると伝えると、社内電話で倉田さんに連絡してくれたので、帰りがけに在社されていた倉田さんに、西山さんと会うことになった経緯を報告した。ただ倉田さんは「新潮社を頑張れよ」ということで、共同通信社に応募することに対してはあまり積極的ではない感じだった。

 倉田さんに紹介された新潮社の編集者は、『週刊新潮』編集部の芸能関係のデスクをしていた椎木輝実さんで、共同通信社に行くかなり前に、社員紹介による応募の挨拶に行った。メゾン・デ・ザールの今井さんからも10月の「サド侯爵夫人」公演の資料を託されて、矢来町の新潮社に初めて出向いた。道を挟んで本館・倉庫と別館があり、窓が小さく暗い色のがっちりしたビルの雰囲気に、やっぱり閉鎖的だなあと思った。ただ『週刊新潮』編集部のある別館は、一階受付の奥が当時は広いショールームになっていて新潮社の出版物を販売していたけれど、オーク材だかチーク材を使った内装が珍しく、その落ち着いた重厚感に老舗の文芸出版社の格式を感じさせた。
 椎木さんに会う応接室に通される際に、廊下の壁の社内掲示板を何気なく見ると、「9月期賞与は〇日に支給されます」という貼り出しがあった。ふつうの企業はどこでも6月と12月の年2回の賞与というのが常識だったから、9月にも賞与が出るのかと、出版社の待遇の良さを思った。当時、マスコミ企業は押しなべて給与水準が高かった。就職関係の資料などでも、初任給が一般企業より数万円は高いのがふつうだったし、その待遇の良さもマスコミ就職人気を高めていたと思う。僕の知り合いの女子が、「電通の社員はランチでステーキを食べているんだから。給料がすごくいいんだよ」なんてバカみたいだけど大事かもしれない話をしてくれたことがある。ただどのようなマスコミ資料を見ても、新潮社の情報はどこにも出ておらず、その頑なな秘密性(?)と「9月期賞与」が結びついて、これはとんでもなく給料が高いのかなと思ったりした。
 椎木さんにはその後何かとお世話になるのだが、初対面からとにかく気さくというか気楽な口調で話をされ、社員紹介による就職試験応募の件も問題なく、「サド侯爵夫人」公演の紹介記事もあっさり応じてくれて「今井さんによろしくね!」という感じだった。

24/07/2026

写真集の編集❸の補足
荒木経惟さん、篠山紀信さんの撮影全カットにダメなカットがない!ということの意味は、やはりフィルム時代に1点1点しっかり自分のカットとして撮影してきた技量の裏打ちがあったればこそなのだと思う。
この世代の一流写真家の技量は、やはり抜きんでていたと、今にして思うのです。
デジタル世代の写真家の撮影の仕方からは、カメラ機能の向上もあって、1カットを撮る重みがなくなったのかもしれません。確かにオートで撮影することでデジカメの機能を活用して今までに撮れなかったようなシーンも撮れるようになったりもしたのですが、さらにデジカメの機能が上がった今、改めて1カットごとのカメラマンの意思を反映させる撮り方に戻った方が良いように思う今日この頃です。

月刊デジタルファクトリーを運営する宮本和英がnote で連載中の「二流編集者の回想記」をこちらでも掲載します。お暇なら読んでください。第6回  呼び屋メゾン・デ・ザールと新潮社と三島夫人 1979年の夏には、本格的にマスコミ企業への就活を始...
24/07/2026

月刊デジタルファクトリーを運営する宮本和英がnote で連載中の「二流編集者の回想記」をこちらでも掲載します。
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第6回 呼び屋メゾン・デ・ザールと新潮社と三島夫人

 1979年の夏には、本格的にマスコミ企業への就活を始めることになったのだが、その頃、僕はフランスの演劇を日本に招聘していた「メゾン・デ・ザール」という、いわゆる“呼び屋”の事務所でアルバイトをしていた。実は就職を考えはじめた頃、この事務所にそのまま就職してもいいのでないかと思っていた。ところが代表の今井正彦さんにはどうもその気はなく、逆に僕の就職を心配してくれて相談にのってくれるのだった。

 今井さんは当時70歳ぐらいで、毎日新聞社の記者として戦前のベルリンオリンピックの特派員などを務め、戦後は松竹が手を引いた文楽の復興に尽力して文楽協会の設立に関わって事務局次長を20年ほど務め、その間、文楽の海外公演や市川猿之助歌舞伎の海外公演などを手がけるなど、文楽、歌舞伎界はもとより国内外の演劇関係にとても顔の広い人だった。

 「メゾン・デ・ザール」は六本木のテレビ朝日通りにあるマンションのワンルームが事務所で、今井さんと、国際交流基金出身の鈴木允子さんという英仏語ペラペラの才媛の2人でやっている小さな事務所だった。僕は前年招聘したパントマイムの帝王マルセル・マルソー公演からアルバイトを始め、79年4月のセルジュ・ボド指揮・リヨン管弦楽団来日公演や5月のフランス国立民衆劇場(TNP)初来日公演「タルチュフ」など、公演前後の忙しい時期に、公演カタログの執筆者の原稿取りや、入場券の税務署での検印(当時は5000円以上の演劇チケットに税金がかかり、検印が必要だった)を貰いに行ったり、公演中は会場に詰めたりして、雑用係をしていた。 

 僕の就活時期は、10月に開催するフランスのルノー・バロー劇団による三島由紀夫の傑作戯曲「サド侯爵夫人」日本公演の準備と重なっていた。
 このフランス版「サド侯爵夫人」は詩人で小説家のアンドレ・ピエール・ド・マンディアルグによる仏語訳により、フランスの名優ジャン=ルイ・バローとマドレーヌ・ルノーの夫婦が創設したルノー・バロー劇団が1976年からパリのオルセー小劇場で上演を続けてきた話題の舞台。77年にルノー・バロー劇団の日本公演を招聘するなどバローと親交の深かった今井さんが、バロー自身から「サド侯爵夫人」の日本公演を強く望まれていたし、やはりこの舞台の日本公演実現に動いていた故三島由紀夫の瑤子夫人も、バローから「今井に任せてある」と聞いて今井さんに協力していたこともあって、夫人がよく事務所に来られていた。挨拶以外に僕が夫人と話をするようなことはなかったけれど、僕は熱烈な三島文学愛好者だったし、瑤子夫人が日本画の大家杉山寧氏の娘で、また弟さんがたまたま僕の父の勤める会社にいて消息を聞くことがあったので、何か勝手に身近に感じつつ、あの三島の夫人だと仰ぎ見るような、恐れ多い感じで見ていた。強い目元が印象的でちょっと怖そうな感じの夫人は、チャキチャキとはっきりものを言うし、小柄な方だったけれど、黒いマントとか着たらきっと魔女みたいだろうな、なんて内心思ったりしていた。

 鳴り物入りの話題作の公演準備で人の出入りも多く事務所が活気づいていた時期に、僕は今井さんとは毎日のように顔をあわせていたから、今井さんも僕の就職活動を他人事と思わなかったようで、「メゾン・デ・ザールが大いに儲かっている事業だったら、宮本君にはうちに来てもらいたいぐらいなんやけどね」と言ってくれ、僕のアルバイトとしての仕事ぶりをそれなりに評価してくれているのだなと、それはそれで嬉しかった。
 ただメゾン・デ・ザールは、今井さんが私財をつぎ込んで成り立っているような状態だったらしい。今井さんが郷里の大阪に帰る際に、「また山を売ってくるわ」と窓の遠くを見ながらよく呟いているのを耳にしたものだった。住友財閥などと関係のある関西の資産家の家に生まれた今井さんは、長身、かくしゃくとしていて、いかにもいい家の出という上品な風貌の銀髪の老紳士だったが、金持ちのボンボンがそのまま老人になったようなところがあり、鹿児島の旧制第七高等学校や京都帝大、そして毎日新聞時代のやんちゃな思い出話をよくしてくれた。戦前のベルリンオリンピックの特派員も、新聞社が自分を特派員に選んでくれないのに腹が立って、自費で勝手にベルリンに行って強引に特派員になってしまったと“自慢”(?)していたし、戦後は文楽や歌舞伎などの裏側でずいぶん私的なお金を使ったらしく、役者達の尻ぬぐいをいろいろしてきたという話も面白かった。今井さんによれば、文楽も歌舞伎もみんな我儘で滅茶苦茶な連中の集まりということになっていた。
 そんな今井さんのことを僕はきっと大好きだった。
 ちなみに京都帝大から毎日新聞という経歴は作家の井上靖氏と同じで、確か毎日新聞は同期入社だったと思う。親しい関係ではなかったようだが、「井上は不思議な奴で、新聞社では何やってるんだか分からないようなところがあったけど、関西の大御所の画家達の家にまるで家族のような顔してズカズカ入り込んでいるので驚いたわ」と語っていたのを覚えている。

 ともあれ、今井さんが話をしてくれて、共同通信社の編集委員で国際問題評論家として活躍していた倉田保雄さんが新潮社の編集者を紹介してくれるということになった。倉田さんは「メゾン・デ・ザール」の公演カタログの執筆者でもあったので、僕も原稿取りに行って面識があったのだが、「共同通信じゃなくて新潮社なんだ」と思った。自分のいる企業より、著者として関係のある新潮社の方が紹介しやすいということだったのだろう。『週刊新潮』を毎週愛読していたけれど、就職先として新潮社というのはまったく考えたことがなかったので、改めて自分の本棚を調べてみると、三島はもちろんのこと、蔵書のほとんどが新潮社のものだったのに初めて気づいて、購入する書籍がどこの出版社から出ているのか気にしたこともなかった人間が果たして出版社に向いているのか自問したが、これはこれできっと面接で使えるな、などと思ったものだ。
 ちなみに当時の新潮社は指定校制度をとっていて、東大京大早慶上智以外の大学出身者は社員の紹介があれば応募できるという形だった。

月刊デジタルファクトリーを運営する宮本和英がnote で連載中の「二流編集者の回想記」をこちらでも掲載します。お暇なら読んでください。第5回 驚きの「週刊新潮」体験。週刊文春に圧倒的な差! さて、ジャーナリズムというものを初めて意識したのは...
18/07/2026

月刊デジタルファクトリーを運営する宮本和英がnote で連載中の「二流編集者の回想記」をこちらでも掲載します。
お暇なら読んでください。

第5回 驚きの「週刊新潮」体験。週刊文春に圧倒的な差!

 さて、ジャーナリズムというものを初めて意識したのは、1974年(昭和49)藝大入試に落ちて浪人していた10月、月刊『文藝春秋』11月特別号に載った立花隆氏の「田中角栄研究~その金脈と人脈」と児玉隆也氏の「淋しき越山会の女王」を読んだことだった。大変な話題になったし、現職の総理大臣がこの記事によって退陣に追い込まれるという雑誌ジャーナリズムの金字塔となった記事である。その緻密な調査報道の形式と新聞が報じないスキャンダルを雑誌が暴くということに、世の中には新聞テレビでは報じられないことがたくさんあるのだと感動した。
 その時の『文藝春秋』編集長の田中健五氏が、小学校卒のまだ50代という若さで総理大臣にまで昇りつめ、「今太閤」ともてはやされて人気絶大だった田中角栄への好奇心からこの大特集を企画したと語っていたのをどこかで読んで、雑誌編集者の存在を初めて意識したし、身近な好奇心こそが雑誌の原動力になることに興味を覚えた。

 田中健五氏はその後、『週刊文春』の編集長になり、今に続く和田誠氏による表紙にリニューアルし、硬派週刊誌には珍しく女性読者を想定するような誌面変革を行って、それも雑誌編集者の在り方を強く印象づけるものだった。つまり田中氏は僕の憧れの編集者第一号になった。
 ちなみに、ずっと後年、田中氏が文藝春秋の社長を退任されて間もない頃だったと思うが、あるパーティで先輩編集者に田中氏を紹介してやろうと言われて、初めてご挨拶するということでとても緊張した。十代のときにその存在を意識した最初の編集者だし。なのだが、そのときの田中氏はすでにグデングデンに酔っ払われていて、僕の名刺を何とか受け取ってもらっただけで終わった。残念ながら、憧れのスターは僕の中で行き場がなくなり、儚く消え去ってしまった……。

 ともあれ、田中健五氏の存在から、月刊『文藝春秋』、『週刊文春』を愛読するようになり、『週刊文春』の発売日と同じ『週刊新潮』の新聞広告が気になり、両誌を読むのが毎週木曜日の楽しみになった。木曜日の朝、まっさきに本屋に行って2冊の週刊誌を買うのが、浪人時代のほとんど唯一の楽しみになり、隅から隅まで読むのが習慣となって、以後何十年と続くことになる。
 僕の好みから言えば、文春の方が好きだった。月刊『文藝春秋』巻末の「社中日記」には、社長から新入社員まで等しく面白おかしい紹介記事が載っていてオープンな社風を感じさせたし、『週刊文春』の明るい誌面作りも洒落ていた。ところが同じ木曜日発売ということで、特集テーマがほとんど重なる『週刊新潮』を読むようになって、びっくり仰天するようになる。

 まず『週刊文春』から読む。ある事件の、新聞が報じない裏側を記事にしていて「なるほど、そうだったのか」と思い、次に『週刊新潮』の同じテーマの記事を読む。そこには文春が報じていたことのさらに裏側が、あるいはまったく思いもよらぬ異なる視点が記事になっている! そういうことが度々あって、これはもう取材力の圧倒的な違いを感じないわけにはいかなかった。だからか、今とは違って70~80年代週刊誌の販売部数は『週刊新潮』がダントツの1位で、文春はかなり引き離されていたようだ。ただ『週刊新潮』の谷内六郎氏の表紙絵は抒情的だけれどどこかもの哀しく、また毎週水曜日に「シュウカン シンチョウハ アシタ ハツバイ デス」と甲高い女の子の声で流れるテレビコマーシャルも、何か戦災孤児が親を探して叫んでいるような哀調を帯びて、いかにも古い昭和の気分。はっきり言えば暗いイメージだし、誌面から、編集者や記者の存在を感じさせるようなスキはなく、閉鎖的な印象だった。 

 一方の文春は、菊池寛に始まり、池島信平、田中健五、半藤一利、花田紀凱、ごく最近の文春砲の新谷学というような面々の名前がすぐに浮かぶし、スター編集者というか話題になる編集者記者が目白押しである。文芸春秋と新潮社、文芸中心のライバル出版社ながら、ずいぶん異なる社風なのだなと感じた。

【お知らせ 拡散希望】 写真家・魚住誠一さんと「月刊デジタルファクトリー」主宰者・宮本和英が、愛知県犬山市で始めた撮影セミナーが10回目を迎えます。「犬山でポートレイト」第10回撮影セミナー 9/26(土)・9/27(日)の参加申込受付スタ...
17/07/2026

【お知らせ 拡散希望】
写真家・魚住誠一さんと「月刊デジタルファクトリー」主宰者・宮本和英が、愛知県犬山市で始めた撮影セミナーが10回目を迎えます。
「犬山でポートレイト」第10回撮影セミナー
9/26(土)・9/27(日)の参加申込受付スタートしました!
両日とも日帰りプランとなります。
こちらから
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■9/26 「入鹿池プラン」は明治村そばの入鹿池で撮影。モデルは2度目の住田名菜子さんです。
■9/27 「下本町プラン」は犬山市街のレトロな街並みを背景に撮影。モデルは初登場の辻しおりさん。
住田さん、辻さんともアリス・イン・ワンダーランド所属のモデルさんです。

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東矢口3-21/13
Ota-ku, Tokyo
146-0094

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