郡山音楽堂

郡山音楽堂 音楽堂創設運動を単身で行っています、

20/09/2024

「防長回天史」を読んで一言
少なからず史実の書に携わってきたが、本書ほど読み手の力が試されているものはないだろう。
私にとっては、立ち向かってもさほどの違和感を抱くことはなかった。
最初はびっくりしたが、今はなんとか読史を行っているが、これが私のやり方なのかもしれない。
本書を含む(史実)の中には、地名や人名などが異なるものを見ることがある。
これは、単に誤りではなく、西日本人が東日本に侵攻したことが要因であると思う。
薩長を中心として地図を携えては来たが、地名に関しては方言などで漢字に起こしているようだ。
人名では、文などの相手以外は、宛字になっても仕方がないだろう。

19/09/2024

⦅原注:総督府従来の手段の一つは温和懐柔に在ると雖も一つは兵力の不足其因(よ)って三条公年譜(ねんぷ)に拠ると官軍・彰義隊を討とうと欲し諸藩隊長等を召し之を議させる参謀林(はやし)玖(く)十(じゅう)郎(ろう)以(おも)為(え)らく関東を鎮定するには二万の兵を要する故を以て其挙暫(しばら)く止(や)む軍防局判事大村
益次郎新たに至り曰く今府内(ふない)の見(げん)兵(ぺい)三千を得るだろう此兵優に賊を破るに足ると三条公等其説を入れ玖十郎の参謀を免じ益次郎として専ら戦備を修めさせる是より大総督の作戦計画一つに大村の手に成る⦆五月山日大総督
輪王寺宮法親王を営(えい)中(ちゅう)に召す病(やまい)を以て辞す翌四日参謀西(にし)四(よつ)辻(つじ)卿(きょう)大総督の命を奉じ下(しも)参(さん)謀(ぼう)寺島(てらしま)秀之助軍監新田三郎之に随う上野に至り法(ほう)親王(しんのう)に謁(えっ)することを請う復タ病と称して面せず尋ねて執当覚王院・龍(りゅう)王院(おういん)(尭(ぎょう)忍(にん))を召すも亦言を左右に託して旨を奉ぜず而して彰義隊の暴行益々甚だしく途上官(かん)兵(ぺい)に逢う毎(ごと)に非礼(ひれい)を加え甚だしきは之を殺傷するあり(原注:五月七日夕(ゆう)肥前兵二人、一人は殺され一人は重傷を負う同日夕薩藩士三人、
一人は殺され一人は重傷を負う自殺した一人は重傷を負う将に自殺しようとするに際し銃殺される)遂に五月十五日を以て上野進撃の期とし十四日市内に布告して脱走屯集の暴行者は之を誅伐(ちゅうばつ)するという意を示し同日
徳川氏に令するに上野山内に在る祖先の霊位(れいい)重器等其日を以て収去すべきことを以てし、又別に之を示すと山内屯集の兵討伐の理由を以てし、而して輪王寺宮に対しても亦書を以て其暴徒と事を共にするという非を挙げて
速やかに避け去らせる
(市中への布告) 
過日以来脱走之輩(やから)上野山内其他所々屯集屡(しばしば)官兵を暗殺し或は官軍と偽り民(みん)財(ざい)を掠奪し益(ますます)兇(きょう)暴(ぼう)を逞(たくま)しゅうする
三条実に国家の乱賊である以来右(みぎ)様(よう)之者は見付次第速やかに可打取(うちとるべく)若し万一密かに扶助(ふじょ)致し或は隠し置き候者
於有之者(これあるにおいては)賊徒同然であろう事
今般徳川慶喜恭順之実効を表するにより祖宗之功労を被思召(おぼしめされ)家名相続被仰出(おおせいだされ)城(じょう)地(ち)禄高等の儀も追々御沙汰に相成
末々(すえずえ)之者に至る迄各(おのおの)其所を得ず者無之様被遊度(あそばされたく)との思召(おぼしめし)に被為在候(あらせられそうろう)処豈(あに)図(はか)らん哉(や)旗下末々心得違(こころえちがい)の輩
至(し)仁(じん)之御趣意を拝(はい)載(たい)し奉らないばかりでなく主人慶喜之素志(そし)に戻り謹慎中之身を以て恣(ほしいまま)に脱走に及び所々
屯集官軍に相抗し無辜(むこ)の民財を掠奪し兇暴至らず所なく万民塗炭の苦に陥るだろうとする故に今般不得止(やむをえず)之を
誅伐(ちゅうばつ)させる素より其害を除き天下を泰山(たいざん)の安きに置き億兆の民として早く安堵の思いをなさるだろう為だから
猥りに離散(りさん)する事あるべからず篤と御趣意を体認し奉り末々之者に至る迄聊か心得違無之屹度(これなくきっと)安堵致し
各(おのおの)其生(せい)業(ぎょう)を営(いとな)み其分に安んずるべき事
案ずるに攻撃の部署は専ら大村益次郎が画策する所で秘密に準備し毫(ごう)も之を諸藩に謀らず、其愈々決して将に
発表しようとすると凜々(りんりん)唯西郷吉之助にだけ之を示したと云う伝え云う西郷吉之助召されて大総督府に至る
大村益次郎之に示すに攻撃部署を以てする西郷熟視(じゅくし)し終わって曰く薩兵を鏖(みなごろし)にするという朝(ちょう)意(い)であるかと
大村は静かに扇子を開閉し天を仰いで言(ことば)なし既にして曰く然りと西郷復タ言なくして退くと
五月十五日暁天霖雨数日未だ霽(は)れない攻撃軍諸藩の兵大(おお)下(げ)馬(ば)(原注:今の
二重橋外)に集合し其一部は上野黒門口に向かうのを目的とし此の任務に当った薩藩・因州・肥後三藩の兵は進んで湯(ゆ)島(しま)明(みょう)神(じん)社(しゃ)で敵を捜索し更に
進んで薩州兵は黒門口の正面に向かう肥後兵は不忍池畔(しのばずのいけほとり)より進み因州兵は切通坂(きりどおしさか)より仲(なか)町(ちょう)に進み⦅原注:此時上野攻撃の外に諸藩兵を分けて和泉(いずみ)橋(ばし)・筋違(すじちがい)橋(ばし)・水戸(みと)邸(てい)等一帯の地を守備させる即ち万一の場合に
於て敵兵として江戸の中心に入られる為メ小石川(こいしかわ)より仙(せん)台(だい)堀(ぼり)の流域を劃(かく)して守備させたという而して上野の東北の背面三(み)河(かわ)島(じま)方位を、之を塞がず反って沼田(ぬまた)・忍(おし)・古河(ふるかわ)・川(かわ)越(ごえ)等には守備兵を派出(はしゅつ)した是レ蓋し市街戦は
余談 忍  行田市
江戸市街を烏(う)有(ゆう)に帰(き)するという虞(おそれ)あるばかりでなく官軍は地理に暗いか故に大村は力めて之を避けようとして作戦を計画するに因るという⦆彰義隊は三枚橋(さんまいばし)附近に小さい堡(とりで)を築き数門の大砲を備えて待つ午後七時
余談 三枚橋  台東区上野三・四・六丁目
過ぎ薩兵先(ま)ず戦を開く交戦少時(しょうじ)で敵兵山門(さんもん)に退き大砲を山王台に集めて殊(しゅ)死(し)防(ぼう)戦(せん)する官軍之を攻めること頗る急である正面の薩州兵最も奮戦する然れども午前十時頃には敵兵尚未だ敗色を現わさず官軍の一部は根岸(ねぎし)・
谷中(やなか)に向かう敵の側(そく)背(はい)を衝(つ)くのを目的とし長州兵此の方面攻撃軍の中堅(ちゅうけん)である⦅原注:此の戦争に参加した長州藩兵は第一大隊四番中隊の一小隊、第四大隊一番中隊の
一小隊及び鋭(えい)武(ぶ)隊(たい)一中隊即ち東海道進軍の兵である)此日暁天他の藩兵と共に大下馬を発し加州(かしゅう)邸(てい)(原注:今の東京帝国
大学所在地)より其東方
低地に出て霖雨の為メ氾濫(はんらん)する泥水(どろみず)を渡って進み根津より団子坂に向かう纔(わず)かに街(まち)端(はずれ)に出るや先頭の第一大隊四番中隊(原注:有(あり)地(ち)品(しな)之(の)允(じょう)
之を率い)俄に敵兵の射撃に遭う因って直ちに之に応じようとしているも未だ其新たに
支給された「スナイドル」銃の操法(そうほう)に慣(な)れない為に混雑を生ず⦅原注:此の「スナイドル」銃は諸隊(しょたい)が川崎に到着した時、先鋒総督の参謀木(き)梨(なし)精(せい)一郎(いちろう)の斡旋に依り横浜の外商より購入したもので当時に在っては最も精鋭の兵器である然るに長州兵が到着後僅かに一回の試験射撃を行うに過ぎなかった遂に斯(か)かる混雑を生ずるに至ったと云う⦆因って一旦敵を大村藩に譲り退いて加州邸に入り急に其の操法を伝習した後、再び前進して遂に
団子坂附近に至る大村・佐土原・備前・筑後(ちくご)・伊州・尾州(びしゅう)の諸兵も亦続いて団子坂附近に来集する
時に官軍の砲兵は本郷台(ほんごうだい)富山邸及加州邸に陣地を定め不忍池を隔てて上野の敵を砲撃する⦅原注:富山邸には肥前藩及び筑後藩の大砲若干門あり就中(なかんづく)肥前藩の大砲二門はアームストロング砲で当時我が国に於て他に其比を
余談 本郷台  文京区本郷五丁目
見ないという鋭砲(えいほう)である故に発するに先だつ大村は其砲隊長を誡(いまし)めて曰く此砲は実に官軍の長城(ちょうじょう)であるを以て敵若し近く迫ることあるなら直ちに退却して重器を全うし慎んで敵手に入れられること勿れと後其一門は
前進して団子坂方面に向かった筑後藩の砲も後(のち)に池之端(いけのはた)茅(かや)町(ちょう)辺(あたり)に転陣する加州邸には伊州藩臼砲(きゅうほう)二門あり逐(ちく)次(じ)に陣地を転じて遂に天王寺(てんのうじ)に進む其外に備前藩大砲若干門あり後に一門を留めて余(あまり)は前進する⦆命中数甚だ
余談 池之端茅町  台東区池之端一・二丁目
多からずしも尚其発射の轟音と敵陣附近に弾着する爆音とは大いに敵兵の胆(きも)を奪(うば)い我が士気を盛んであるらしいであるばかりではなく其若干は敵陣で破裂し堂閣(どうかく)を破(は)壊(かい)し以て攻撃兵に援助を与えたこと鮮少(せんしょう)ならず敵兵
漸く動揺する黒門口の官軍機を見て突貫敵陣に迫る敵兵遂に守ること能わず黒門先ず官軍の有となり山王台の敵兵敗走する官軍乃ち火を堂宇(どうう)に放ち敵が逃げるのを追う且つ戦い且つ進む敵兵遂に潰走(かいそう)する団子坂方面の
官軍は少時(しょうじ)水田を挟んで戦を交えていたが長州藩兵は遂に意を決して前進し、強大という抵抗に遭うことなく対岸に達し進んで左に折れ天王寺附近に到る大村藩等の兵亦タ同時に前進し黒門口の諸兵と共に全て賊を攘う
之を占領し黄昏(たそがれ)の比ふ各藩の兵逐次大総督の旗下に凱旋する此日官軍の死傷約百二十人あり而して谷(や)中(なか)口(ぐち)に向かった諸藩兵の中長州藩兵の死傷最も多く死者嚮導二名(原注:佐藤・左武
良生・瀬・清見)士卒五名(原注:
久山寿之助・池永小五郎
原虎之助・藤井靖六・内山久之進)傷者士卒五名あり敵兵死、約二百余人傷(きず)之と称えたと云う
翌十六日敗兵駆除(くじょ)の目的を以て左の如く部署を定めて巡邏(じゅんら)捜索させる且つ令して曰く
途中若(も)し残兵と認めるべき者に遇うなら糺問(きゅうもん)して措置すべし兵器を携えない者は
斬戮(ざんりく)することを得ずと而も残兵概ね皆逃遁(とうとん)するを以て巡邏兵は殆ど獲る所なし
昨十五日上野で打ち洩らし候賊掃除(そうじ)被仰付(おおせつけられ)候条藩々兼ねて持場吟味(ぎんみ)いたし
精々可致尽力(じんりょくいたすべく)旨被仰出(おおせいだされ)候(そうろう)事(こと)
但し講(こう)武所(ぶしょ)へ可相揃事(あいそろえべくこと)
広小路(ひろこうじ)・三枚(さんまい)橋(ばし)辺(あたり)
薩州  因州  肥後
本郷(ほんごう)・駒込(こまごめ)・根(ね)岸(ぎし)辺(あたり)
備前  長州  佐土原  大村  肥前
道灌山(どうかんやま)・谷(や)中(なか)・王(おう)子(じ)辺(あたり)
芸州  伊州  筑後
浅(あさ)草(くさ)・蔵(くら)前(まえ)辺(あたり)
筑前  尾州
残兵は深く潜匿(せんとく)している少数者の外は抵抗の態度ないのを以て十八日に至って
更に左の達しある
各藩への達し 
当・府内潜伏(ふないせんぷく)之残賊最早退散に及び候条明(みょう)十八日より各藩にて私に襲撃一切
被差留(さしとめなされ)候尤も巡邏斥候(せっこう)のものより賊徒見付次第書付(かきつけ)を以て中軍に可申出(もうしでるべく)候
臨機(りんき)御指揮可有之(これあるべく)旨被仰出候事(十八日)
十九日戦争に与った諸藩兵閲兵(えっぺい)の事あり(原注:十九日辰(たつ)半刻
大下馬に集合の命あり)二十日市中の巡邏を
薩長・因州・佐土原の四藩に限り二十人乃至(ないし)五十人を以て巡邏の一団とさせる
薩  州  藩
長  州  藩
因  州  藩
佐 土 原 藩
右、当・府内残賊潜伏之聞こえも有之候(これありそうろう)に付市外巡邏取締可致(とりしまりいたすべく)尤(もっと)も猥りに捕縛(ほばく)打捨て等
被禁候条賊徒見当たり次第(しだい)急度(きっと)取り糾(ただ)し申出候ハバ御指揮可有之(これあるべく)旨御沙汰候事
但し五十人より二十人とし以下の小人数(こにんずう)被禁候事
此に於て兇賊(きょうぞく)の潜匿する者逐次(ちくじ)捕縛(ほばく)され府内漸く静謐(せいひつ)に帰する⦅原注:天野(あまの)八郎(はちろう)は窃に江戸に留まり同志を集めて急に西(にし)城(じょう)(村(むら))を奪うことを
謀ったか此年七月上旬縛(ばく)に就(つ)き十一月獄中で死す又輪王寺宮及び池田(いけだ)大隅(おおすみ)守(のかみ)(変名和田権太)春日(かすが)左(さ)衛門(えもん)等は海路奥羽に走る⦆
飯能(はんのう)事件(じけん)
彰義隊掃平の後幾ばくもなくして青梅(おうめ)附近(ふきん)騒擾(そうじょう)の報あり前に彰義隊頭取であった渋沢(しぶさわ)誠一(せいいち)郎(ろう)等が煽動(せんどう)して起こす所である大総督府は此報を得
五月二十日大村・筑前・筑後・佐土原の四藩に命じ直ちに進んで之を討(とう)平(へい)させる二十一日官軍江戸を発し田無(たなし)に宿(しゅく)す、諜(ちょう)して敵が飯能(はんのう)に在るのを知る
二十二日扇(おうぎ)町屋(まちや)に進み攻撃部署を定め、明(みょう)暁(ぎょう)午前を以て進発しようとする二十三日佐土原兵先ず進んで葛西村(かさいむら)に至り敵の一部隊と戦う大村兵継いで至り
余談 扇町屋  入間市(いるまし)。明暁  次の日の明け方。葛西=江戸川区葛西
敵を撃って之を走らせ天明(てんめい)くるのを待って更に進んで飯能市街に突入し敵の本拠能(のう)仁(にん)寺(じ)に迫り火を放ち急に之を撃つ敵支えずして四散する筑前・筑後の兵進んで
智(ち)観(かん)寺(じ)を燃やし敵亦タ商家を焼いて逃げる、乱遂に平らぐ督府乃ち筑後兵を留めて残徒の駆除に当らせる他三藩に命じて江戸に凱旋させる(原注:渋沢誠一郎等二百余人榎本武揚(えのもとたけあき)に従い
長(ちょう)鯨(げん)丸(まる)に乗じて函館に走る蓋し大概(たいがい)飯野(いいの)の敗兵という)
小田原事件
初め官軍が東海道を下るや幕府旗下の士岡田(おかだ)斧(おの)吉(きち)・人見(ひとみ)勝(かつ)太郎(たろう)・佐久間兵一郎之を日坂村(にっさかむら)に迎へ参謀海江田(かいえだ)武(たけ)次(じ)を見て慶喜の為に寛(かん)典(てん)を請う江戸に帰り上野に入り命を待つ既にして官軍箱根を越え江戸に入る
余談 日坂村  掛川市(かけがわし)
岡田等之を見て同志の士伊(い)庭(ば)八(はち)郎(ろう)・樋口錦三郎等三十余人と上野を脱し軍艦に乗じて榎本等と共に館山に走る榎本等勝(かつ)安房(あわ)守(のかみ)の説諭に依り富士山艦以下数隻の軍艦を朝廷に納めるや伊庭等は更に一隻に乗じて
木更津に脱走する請西領(じょうざいりょう)林(はやし)昌之助之に加盟し兵を募り海(うみ)に航(こう)して相模(さがみ)に至り将に甲州に入り甲州城に拠ろうとする山岡鉄太郎(やまおかてつたろう)之を諭して沼津(ぬまづ)に還らせる督府乃ち水(みず)野(の)出(で)羽(わ)守(のかみ)に命じ林等を拘禁(こうきん)させる林等は
余談 水野出羽守  水野(みずの)忠(ただ)敬(のり)
沼津を脱して小田原に至り小田原藩に迫って応じさせ箱根の関を襲う蓋し官軍の後路(うしろ)を断ち彰義隊と相呼応して為す所あるであろうとするという之より先キ督府は和田藤之助・中井範五郎(なかいはんごろう)・三雲為一郎を軍監とする
和田を沼津に中井・三雲を小田原に遣わして其地方を鎮めさせ中井は小田原兵を率いて箱根に至り関門を守る林等が関門を襲うや小田原兵叛(はん)し之に応じ中井を斬って林等を容れ又小田原在城(ざいじょう)の三雲を脅す三雲走って
江戸に帰り其状を聞かす督府乃ち穂波(ほなみ)三位(さんみ)を問(もん)罪(ざい)使(し)とする参謀河(かわ)田(た)佐(さ)久(く)馬(ま)・三雲為一郎と共に長州(此の長州兵は第一大隊一中隊(原注:有(あり)地(ち)品(しな)
余談 穂波三位  穂(ほ)波(なみ)経(つね)度(のり)と思われる
之(の)允(じょう)指揮)鋭(えい)武(ぶ)隊(たい)一中隊(原注:飯田
竹二郎指揮)因州・備前及び伊州四藩の兵を
率い小田原に向かわせる
〈頭注〉此時長州藩小隊司令松岡(まつおか)梅(うめ)太郎(たろう)選抜兵十二人を率いて赴く、松岡は不幸敵弾に中たって傷つき六月二十日横浜病院で死す(維新(いしん)戦役(せんえき)実歴談(じつれきだん)四一四頁参照)
五月二十三日問罪使の一行江戸を発する二十七日小田原藩の老臣大磯(おおいそ)に来り謝罪書を出しているも書辞(しょじ)曖昧(あいまい)で要領を得ないと以て三雲等は之を却け且つ告げると直ちに進んで城に迫るべきことを以てする老臣恐懼(きょうく)して
去る是より先キ長州藩兵は馬(うま)入(いり)を守り備前兵は中原村(なかはらむら)を守り別に伊州・備前各一小隊を以て偵察隊と為し先行して酒匂(さかわ)川(がわ)に至らせる小田原藩抵抗せず反って官軍の為に仮橋(かりばし)を架設する全軍乃ち直ちに行進して小田原に
余談 中原村  川崎市
入る重臣正装して之を迎え攻撃の期を緩くすることを哀訴(あいそ)し菩提寺に退去謹慎中である藩主大久保(おおくぼ)加賀(かが)守(のかみ)出て官使(かんし)に謁し其罪を謝し自ら兇徒(きょうと)を討って実行を樹(た)てることを乞う且つ曰く既に兵を発して箱根に向かわせたと
余談 大久保加賀守  大久保(おおくぼ)忠(ただ)良(よし)
是に於て官軍四藩の兵各一小隊を派し小田原兵に尾しテ進み敵兵と戦い之を破り追撃して山崎村(やまさきむら)に至る敵兵散乱して遁(のが)れる⦅原注:×此の敗兵は館山に依り旧幕の脱艦(だつかん)長崎丸に乗り奥州に走り小名浜より上陸した其人員
余談 山崎村  箱根町
林昌之助主従(しゅじゅう)館山藩人・岡崎藩人及び脱走兵等合せ二百余名であったと云う)其夜小田原兵戦場を守り長州・因州兵は風祭村(かざまつりむら)に屯し備前・伊州兵は小田原城に帰陣する問罪使の一行は日ならずして江戸に凱旋し伊州兵
若干止(とど)まって小田原及び箱根を警衛する
日光方面の戦争
会津より見れば南口即ち野州(やしゅう)方面(ほうめん)(原注:藤(ふじ)原(わら)口(ぐち)は
其重なるもの)は東口即ち白河方面及び西口即ち越後方面と共に要衝の藩(はん)境(きょう)である土州兵今市(いまいち)に入り彦根兵日光(にっこう)に入った後(のち)、会津兵・脱走兵等藤原(ふじわら)・大原(おおはら)・高(たか)徳(とく)辺(あたり)で屯集し
(原注:彦根藩届に五百許(ばかり)とある
土佐届では六百人とある)閏四月十八日其一部大桑村(おおくわむら)に進出する今市の土佐兵之を撃退する日光の彦根兵亦出て援け小(こ)百(ぴゃく)を経て大桑に至る賊既に去る十九日土州・彦根両藩謀(はかりごと)を合(あわ)し十九日昧(まい)爽(そう)共に進んで
小佐(こさ)越(ごえ)・高徳(たかとく)両所の賊(ぞく)塁(るい)を衝こうとして進んで川を渡り行くこと之を少なくして賊兵逆らって戦う二藩兵之を破り進んで小佐越・東北の野に出る敵兵猶善く防ぎ戦う会々敵の別隊高徳より川を渡り大桑を衝き官軍の背後を絶とうとする彦根兵及び土佐兵の一部之に赴き撃って之を却く、小佐越の本軍利あらず退いて大桑で合する二十一日賊又宇都宮街道の大沢(おおさわ)に出る土佐兵馳せて之に赴き撃って之を走らす同日日光街道にも亦賊兵来り襲う
土佐の別隊奮戦して大いに之を破る賊退いて其守(しゅ)地(ち)に還る五月朔(ついたち)敵兵復タ小百村より直ちに日光の東面(とうめん)の野に出て大谷川(だいたにがわ)及び一本松の彦根藩屯所を襲う彦根兵撃って之を却く、時に賊更に次第に大(おお)桑(くわ)・小(こ)百(びゃく)・高(たか)畑(はた)・
百(しも)村(むら)の諸(もろもろ)地(のち)に集まり昼は旌旗(せいき)を翻(ひるがえ)し夜は篝火(かがりび)を焚(た)き今市に逼迫(ひっぱく)する土佐兵厳守(げんしゅ)して之を待つ六日賊遂に芹沼(せりぬま)より大谷川を渡り今市に迫る土佐兵奮戦して之を却く、此日宇都宮に残って守備する土佐兵二小隊来り援け
余談 百村  塩原市
戦う正に終わるに際し到着する因って共に追撃約一里で守備地に還る是より暫く対峙(たいじ)休戦の姿と為る是(この)時(とき)に当り下総(しもうさ)・下野(しもの)・上野地方賊徒出没の故を以て五月三日肥前佐賀藩主鍋(なべ)島(しま)侍(じ)従(じゅう)直(なお)大(だい)下総・下野鎮撫の為メ出張を
命ぜられ其七日肥前兵江戸を発し下野地方に向かう⦅原注:江戸出発の日士分(しぶん)二人痛(つう)処(しょ)あって行軍に後れ駕籠で上(うえ)野(の)山(やま)下(した)町(ちょう)・北大門(ほくだいもん)通過に際し彰義隊の者に襲われ、一人は殺され一人は重傷を蒙り佐賀藩邸に帰り報告する
為メ肥前兵大いに激し大総督府で対(たい)手(しゅ)を捕縛する乎然らずなら一手(いって)でも報復の戦をしようと稟申(りんしん)し大総督府は此事に対して肥前兵の恥(ち)辱(じょく)であるは処置を取るべく野(や)州(しゅう)では速やかに行軍を継続すべきことを指令すること
ある⦆既にして五月下旬肥前兵今市に入り今市の土佐兵(原注:隊長
板垣退(いたがきたい)助(すけ))は白河赴援(しらかわふえん)を命ぜられ転じて白河に赴く(原注:二十七に白河に着す
出発は其二・三日前なのだろう)時に宇都宮藩亦藩(はん)境(きょう)の故を以て今市附近に出して藤原口の前面を
守備する六月下旬に及び肥前兵・宇都宮兵相(あい)謀(はか)る所あり六月二十五日肥前兵の一部は今市より小佐越に向かう一部は大沢(おおさわ)より出て鬼怒(きぬ)川(がわ)を渡り宇都宮兵と会し共に高徳村(たかとくむら)に入り村外れに進むこと六・七町で敵兵砲(ほう)塁(るい)より
発砲し戦を開く二藩兵之に応じて頗る苦戦する会々小佐越の肥前兵側面より敵兵を撃ち又間道に廻した二藩兵敵塁の背後に出て之を撃つ敵遂に支えること能わずして大原村(おおはらむら)に退く復タ進み撃って之を破り敵藤原村(ふじわらむら)に退く
二藩兵亦暴風雨(ぼうふうう)且つ日(にち)暮(ぼ)の故を以て大原村の胸壁を毀す肥前兵は退いて小佐越・大渡(おおわたり)の二つの村に宇都宮兵は退いて千手(せんじゅ)村(むら)に宿陣する翌二十六日両藩共に藤原の敵塁に迫り開戦し利あらずして退く是より先キ芸州兵
余談 千手村  鹿沼市
日光出張を命ぜられ此月下旬を以て芸州兵日光に着し彦根兵は去って白河に赴く⦅原注:彦根兵は忍藩兵に代わり白河守備を命ぜられたという彦根藩の届に拠れば六月十四日付で大総督府より薩州と交代を命ぜられ
二十二日斥候二小隊を白河に先発させ兼ねて芸州兵・肥前兵前後到着するを以て二十八日全部日光を出発して白河に向かったとある⦆是よりして日光方面の守備は芸州・肥前及び宇都宮兵の分担と為り日光に芸州兵
今市に肥前兵いるという外稍(やや)藤原口の守備の線を展開して宇都宮兵舟生(ふにゅう)に駐屯し舟生より今市の間要所に宇都宮・肥前の両藩兵を配置する
余談 舟生  塩谷町(しおやまち)

19/09/2024

彰義隊 援軍明細

歩兵隊及び砲兵隊を除く

部隊名 隊長など 隊士・隊員数
遊撃隊(ゆうげきたい)
総督 林(はやし)忠(ただ)崇(たか)(請(じょう)西(さい)藩(はん)主(しゅ))
人見(ひとみ)勝(かつ)太郎(たろう)と
伊庭(いば)八郎(はちろう)が隊長
隊士 二百人
純(じゅん)忠(ちゅう)隊(たい)
隊長 竹中(たけなか)丹後(たんご)守(のかみ)(重(しげ)固(かた)・旗本)
総勢三百余名
精(せい)忠(ちゅう)隊(たい)
隊長 黒谷釤一郎 隊士二十五名
貫(かん)義(ぎ)隊(たい)
隊長 松平兵庫頭から
村上 求馬 隊士 約百名
臥(が)竜(りゅう)隊(たい)
隊長 間宮(まみや)金三郎
隊員 百名
神(しん)木(ぼく)隊(たい)
隊長 酒井(さかい)良(りょう)佐(すけ)(高田藩士)
隊士八十六名
松(しょう)石(せき)隊(たい)
総督 大目付津(つ)田(だ)柳(りゅう)雪(せつ)
隊士三十人
万(まん)字隊(じたい)
隊長 久世(くぜ)謙𠮷(関宿(せきやど)藩主(はんしゅ)・
広(ひろ)文(ふみ)の幼名)
隊士 二百名
高勝隊(こうしょうたい)
隊長 宮崎貫哉(高崎藩士) 隊員 三百名
浩(こう)気(き)隊(たい)
隊長 蒲生(がもう)三郎
隊士約三十名
大砲二門
白(びゃっ)虎隊(こたい)
隊長 梶原(かじわら)平(へい)馬(ま)(会津藩家老)
隊士約三十名
水(すい)心(しん)隊(たい)
隊長 結城藩主水野(みずの)勝(かつ)知(とも)
隊士三十八名
清(せい)鋭隊(えいたい)
隊長 中(なか)條(じょう)金(きん)之(の)助(すけ)(旗本)
隊士 七十余人
旭(あさひ) 隊(たい)
隊長 奥山八十八郎
吹田(すいた)  鯛六
隊士 百五十名
白虎隊は、会津白虎隊とは別。旭隊は、本書には記されてはいない。
梶原平馬=
ア-ネスト・サトウは、藩の通訳野口(のぐち)富蔵(とみぞう)の仲介で平馬に会う。

19/09/2024

白河籠城
五月朔日官軍が白河を抜くや即夜兵を分けて各(おのおの)口(くち)の守備に任ずる我が長州藩兵は棚倉・鹿島(かしま)の両口に当る翌二日三(さん)斗(ど)小(ご)屋(や)の敵兵約千人大田原兵郊外石(いし)林(ばやし)村(むら)附近に出て之を防ぐ此日大雨大田原兵前装(ぜんそう)銃(じゅう)を使用する雨の為
余談 石林村=那須塩原市
発火自由ならず敗れて城に入る敵更に猛撃する乃ち自ら城内の一部に火をはなち城外中田(なかだ)原山(はらやま)に退く既にして敵は内(ない)城(じょう)に入らず石林村を焼いて去る三日大田原の警報白河に達す官軍之を援けようとして薩藩六番隊芦野に
余談 中田原山=中島村(なかじまむら)川原田(かわはらだ)付近
赴き大垣二小隊・忍半小隊白坂に赴く賊既に去るを以て還る是より白坂は白河城防禦線内(ぼうぎょせんない)に置き大垣兵の一部と黒羽兵とを分ち之を守る四日夜敵兵薩兵の守る地に来襲する我が長州兵二分隊赴き援け撃って之を走らす
十一日三条大監察使の使者山縣小太郎(やまがたこたろう)医師前田森斎至り軍労(ぐんろう)を慰(い)し并(なら)びに傷者を横浜大病院に送致するという措置(そち)を為して江戸に還る十四日我が兵守備線内の二個の野(や)堡(ほう)竣(しゅん)功(こう)する二十四日金(かね)山(やま)の敵黒羽藩の守る地に
余談 金山=表郷金山
来襲する数日来敵兵は二・三十人の一団を為し屡々官軍の哨兵(しょうへい)線内外で出没し時に相衝突する此日は稍(やや)其数を増加して来襲するという黒羽藩兵能(よ)く(く)防いで之を却く、時に官軍亦薩長・大垣三藩相(あい)謀(はか)り地理探検を兼ね
三藩より各(おのおの)兵(へい)若干を出して近傍(きんぼう)を巡邏(じゅんら)する二十五日我が二番隊の一部薩兵・大垣兵と共に巡邏して大田原駅に敵兵約百が屯集するのに遇(あ)う、撃って之を走らせ火を村中(むらじゅう)に放って帰る同日又我が三番隊の一部鹿島口より
出て本(もと)沼(ぬま)村(むら)に向かう敵兵約五・六十本沼村附近の樹林の中に伏し遽(にわ)かに起きて左右より来り襲う我が兵直ちに散開応戦寡(すくな)いのを以て衆を破り村中に突入し火を敵兵屯集所の家屋に放ち帰陣する翌二十六日敵兵大挙して
棚倉街道・湯本街道・鹿島街道・奥羽街道・金(きん)勝(しょう)寺(じ)街(かい)道(どう)・原(はら)街道(かいどう)・白坂の各方面より一時(いっとき)に白河を来襲する棚倉街道は我が二番隊之を守り鹿島街道は三番隊之を守る二口(ふたくち)の敵勢殊に猛撃である我が兵寡兵(かへい)を以て勇(ゆう)奮(ふん)之に
当り遂に之を却く⦅原注:此日棚倉口では薩藩二番隊・我が兵を応援する又鹿島口の我が兵約八・九十を以て二大隊余(あまり)の敵に当る苦戦甚(いた)し援けを棚倉口の二番隊に請う二番隊交戦中であったでも鹿島口の危急を思い
砲隊を出して之を助け午後戦(いくさ)最も激しいという此のままであった為発火(はっか)便ならず我が兵勢に乗じて之を撃ち遂に之を破ったと云う⦆
※棚倉街道=太田(おおた)街道(かいどう)・国道349号。湯本街道=御(ご)斎(さい)所(しょ)街(かい)道(どう)・福島県道14号いわき石川線。鹿島街道=福島県道26号小名(おな)浜(はま)平(たいら)線(せん)。
二十七日敵又棚倉・鹿島・金勝寺の諸口に襲来する棚倉口は我が二番隊之に当り鹿島口は我が三番隊之に当る金勝寺口は薩藩・大垣之に当る同日午後土州兵百余(あまり)日光方面より来て入城し金勝寺口の戦に加わり其一部は
鹿島口の我が長州兵に援軍する此日戦闘激甚(げきじん)であった諸(もろ)口(ぐち)とも官軍均しく撃って敵を却け、薩藩・土州・大垣兵は大谷地村(おおやちむら)屯集の賊を撃ち之を走らせ賊営(ぞくえい)を焼いて還る是より白河城・薩(さっ)長(ちょう)土(ど)・大垣四藩兵あり別に小数と
余談 大谷地村=白河市豊(とよ)地(ち)大谷地
雖も忍・黒羽二藩兵あり力を合せて部署を分ち、之を守る二十八日早天敵復タ棚倉・鹿島両口に襲来する棚倉口の戦殊に激しくて我が兵頗る苦戦するも正午前遂に敵兵を破り追って進んで原(はら)郷(ごう)土(ど)村(むら)を焼いて帰営する午後
余談 原郷土は通称・表(おもて)郷(ごう)金(かね)山(やま)付近
一時敵兵再び襲来する復タ撃って之を却く八時敵更に来襲する此日棚倉・鹿島両口とも一(いっ)昼夜(ちゅうや)敵三回来襲し棚倉口の戦殊に激しいという此数日の来襲蓋し敵兵一挙にして白河を回復することを謀ったという而も官軍善く
防ぐを以て敵遂に志を果たすこと能わず二十九日晦日に及び六月朔日各(おのおの)口(くち)陸続小戦(しょうせん)あり十二日に至り敵再び大挙して棚倉口・鹿島口・奥羽口・金勝寺口・湯本口・白坂口の諸方面より来襲する時に棚倉口は薩兵之に
当り鹿島口は旧(きゅう)の如く我が兵之に当る(原注:薩兵・長州兵より多数であったから鹿島口は薩兵に譲(ゆず)ったという
又忍藩兵は当時常に我が長州兵に属して共に戦ったという)棚倉口先ず開戦し戦う甚だ激しい須臾(しゅゆ)にして他の諸方面均しく砲火相交わる棚倉口は敵兵二大隊余三つ
道に分れ一つは本道、一つは大沼(おおぬま)脇より来る我が長州兵・忍兵と共に全兵を五・六に分ち小径(しょうけい)樹林(じゅりん)等の間を潜行(せんこう)し敵の前後より急撃する敵兵狼狽し砲一門・小銃十五・六死屍(しし)・八負傷一つを棄て敗走する諸方面の敵亦
敗走し官軍大いに勝つ此日白坂駅へも敵兵来襲する大垣分隊・黒羽兵と共に之を却く
始め官軍が白河を占領するや勢に乗じ直ちに進んで会津を攻めようと欲し屡々援兵の続発を大総督府に請う時に府下(ふか)の官軍未だ多からず之に加わるとして関東各地の物情未だ定まらず江戸市内では彰義隊が上野山内で
屯集して隙(すき)を窺(うかが)い暴行している大総督府は勢未だ多く手を白河方面に伸ばすこと能わず因って白河の官軍に命じて堅く城を守って時機を待たせ五月下旬に至り日光方面の土州兵として赴き援けただけ故を以て白河の
官軍は五月朔(ついたち)入城以来殆ど籠城(ろうじょう)の情態(じょうたい)に在って四面(しめん)来襲の敵を撃破するに怠らず
彰義隊討伐
総野(そうの)の掃(そう)攘(じょう)謀(はかりごと)終わり白河城亦タ官軍の有に帰したと雖も彰義隊の一団尚ホ上野山内で屯集して暴挙を謀ろうとする初め一橋恩顧(おんこ)の士同志に激し二月十二日午下四時を期し雑司(ぞうし)ヶ(が)谷茗荷屋(やみょうがや)に集まるらしい期にいたって
会するもの十七人(原注:此日慶喜
上野に退去する)十七日復タ四谷円応寺で会する集まる者数十人(すうじゅうにん)二十一日更に浅草(あさくさ)本願寺(ほんがんじ)で会する集まる者百(ひゃく)有余(ゆうよ)の人に及ぶ自ら彰義隊と号し渋沢(しぶさわ)誠(せい)一郎(いちろう)(原注:後(のち)に喜(き)作(さく)
余談 四谷円応寺(廃寺)
と称する)を推して頭取と
為し天野(あまの)八郎(はちろう)を以て副と為し血誓盟約する所あり慶喜を擁護すると称し上野山内に屯在(とんざい)する輪(りん)王寺宮法(のうじみやほう)親王(しんのう)・執当覚(かく)王(おう)院(いん)・竜王院(りゅうおういん)等頻りに隊士を煽動(せんどう)する四月十一日慶喜が山内を出て水戸に赴くと彰義隊猶山内に留まる既にして田安亀之助入って宗家を継ぐという事あると至るも隊士猶散ずるという色なく却いて盛んに同志を糾合(きゅうごう)する(原注:当時渋沢は天野と其議合わず
同志若干と去って青梅(おうめ)に赴いた)而して遊撃隊(ゆうげきたい)・歩(ほ)兵隊(へいたい)・砲(ほう)兵隊(へいたい)・純(じゅん)忠(ちゅう)隊(たい)・精(せい)忠(ちゅう)隊(たい)・貫(かん)義(ぎ)隊(たい)
彰義隊の援軍として別表あり
臥(が)竜(りゅう)隊(たい)・神(しん)木(ぼく)隊(たい)・松(しょう)石(せき)隊(たい)・万(まん)字隊(じたい)・高勝隊(こうしょうたい)・浩(こう)気(き)隊(たい)・白(びゃっ)虎隊(こたい)・水(すい)心(しん)隊(たい)・精鋭隊(せいえいたい)の十六隊悉く徳川恩顧の士に成るもの争って来り投じ総員二千余人に及ぶ(原注:山岡(やまおか)の手記には
三千余人とある)其意輪(りん)王(のう)寺(じ)宮(のみや)法(ほう)親(しん)王(のう)を擁して官軍に
抗し関東の脱走兵及び東北諸藩の聯合軍に応じ窃(ひそか)に江戸城の回復を計るために在り諸藩の両端を抱くもの亦人を隊の中に派し機を見て起きようとする大総督命を徳川氏に下し之が鎮撫に任せる徳川氏乃ち山岡(やまおか)鉄(てつ)太郎(たろう)を
山内に遣わし説いて解散させようとする覚(かく)王(おう)院(いん)(義(ぎ)観(かん))応ぜず彰義隊聴かず加之(しかのみならず)元来節制なしの烏合(うごう)の兵であるを以て時に市中に出没して暴行を逞(たくま)しくする如是(かくのごとし)の事態固より久しく寛恕(かんじょ)すべきに非ず閏四月下旬関東大監察使(だいかんさつし)三(さん)条(じょう)実(さね)美(とみ)卿(きょう)軍防局判事大村益次郎東(とう)下(か)するに及び徳川氏に委任する市政一切を官軍の手に収め懐柔(かいじゅう)鎮撫の方略を変じ断然の手段を以て彰義隊の撲滅(ぼくめつ)を期する

19/09/2024

第 八 章  関東各地及び白河の戦争
結城藩(ゆうきはん)情○流山(ながれやま)戦争(せんそう)○宇都宮戦争○両(りょう)総(そう)各地の鎮撫○那須戦争
○官軍白河城占領○彰義隊の討伐○飯(はん)能(のう)事件(じけん)○小田原事件
○日光方面の戦争
慶喜帰順すると雖も関東未だ平定せず流山・結城・宇都宮の諸戦あり両総各地掃(そう)攘(じょう)の事あり那須・白河方面で諸戦あり江戸市内の彰義隊討伐及び飯能・小田原の二つ事件あり日光方面の戦争あり今本章に於て其概要を
各別に記述する
流山・結城(ゆうき)・宇都宮の戦争
慶喜謹慎命を待つという時に方(あ)たり旗下の士多くは尚ホ恭順の念なく其一団は江戸を脱して総野(そうの)の間を奔走し窃に挙兵を企て此時に当り結城藩水野氏家臣の中二党あり自然の勢一つは勤王派、一つは佐幕派と為り久しく
相軋轢(あつれき)する佐幕派遂に彰義隊を援引(えんいん)と為し三月二十五日急に起こって当局の勤(きん)王(のう)家(か)を攻め之を逐(お)って其城に拠る勤王派逃れて江戸に来り之を東山道官軍先鋒板橋(いたばし)の本営(ほんえい)に訴(うった)え宇都宮藩亦会津兵の来襲を懼(おそ)れ屡々急使を
派して援けを乞う又嚮(さき)に甲州(こうしゅう)勝沼(かつぬま)に於て官軍の為に破られた近藤(こんどう)勇(いさみ)亦其徒(と)土(ひじ)方(かた)歳(とし)三(ぞう)等と共に下総(しもうさ)流山(ながれやま)に拠って変を窺(うかが)う此(ここ)に於て東山道の官軍は先ず流山の賊を掃攘し更に進んで結城を鎮定し宇都宮を救援しようとし
彦根(ひこね)・須坂(すざか)・岩(いわ)村(むら)田(だ)・揖(い)斐(び)の諸藩兵及び幕府旗下岡田(おかだ)某(なにがし)の兵を合わして一軍を編成し我藩祖式金八郎薩藩有(あり)馬(ま)藤(とう)太(た)等之を率い⦅原注:楢(なら)崎(ざき)頼(らい)三(ぞう)戦録(せんろく)に長州祖式金八郎・岩倉殿・御内(みうち)香(か)川(がわ)敬(けい)三(ぞう)両人参謀として之を引率したとあり因州の届書(とどけしょ)では大監察香川敬三・大監察助役平川(ひらかわ)和太郎に鎮撫被仰付(おおせつけられ)薩藩有馬藤太・長州藩祖式金八郎・土州藩上(うえ)田(だ)楠(くす)次(じ)へ軍略御委任右三名彦根藩・須坂藩及び岡(おか)田(だ)将(しょう)監(げん)の兵三百余を率いたとあり⦆四月朔
(原注:或は曰く
二日)板橋の本営を発し千住(せんじゅ)を経て流山に向かう、襲って賊兵を走らせ首魁(しゅかい)近藤勇を擒(とりこ)にする⦅原注:因州の届に拠れば四月二日板橋を発し五日流山の賊を襲う賊悉(ことごと)く降(くだ)る近藤を捕らえて板橋に送る六日
結城を攻める楢崎の戦録に拠れば四月朔日千住往還(おうかん)より進発し二月流山の賊を走らせ近藤を擒(とりこ)にし、五日結城に迫るとあり日符合(ふごう)せず姑(しばら)く待ち後証(あかし)近藤は之を板橋に護送し斬るに処し其の首級(しるし)は京師に送り三(み)条(じょう)河(が)原(わら)で梟(きよう)す⦆官軍乃ち分かれて二つとなり一つは祖式金八郎・須坂(すざか)・館林(たてばやし)二藩の兵を率いて(原注:館林兵は本軍が出発後途中に
於て来り合わしたものであろう)結城に向かう一つは香川敬三・平川和太郎・有馬藤太等彦根・岩村田・揖斐等諸藩の兵を
率いて宇都宮に向かう六日祖式隊結城に達し之を撃つ城兵遁走(とんそう)する祖式等乃ち城に入って之を守る七日宇都宮に向かった官軍無事宇都宮に入る日光附近に賊兵いると聞き八日宇都宮の官軍出て之を追跡(ついせき)する、至るなら則ち
敵兵既に去るを以て宇都宮に還る
既にして旧幕歩兵奉行大鳥圭介(おおとりけいすけ)の統率する歩兵隊四百五十余人四月十一日を以て向(むこう)島(じま)報(ほう)恩(おん)寺(じ)に会して事を議し下総(しもうさ)鴻之台(こうのだい)に到って江戸の形勢を窺う而して後事を挙げようと欲し十二日市川に至る、時に幕府の人土方歳三
余談 鴻之台  市川市国府台の旧名
(原注:流山より遁(のが)れ
来るという)山瀬(やませ)司馬・会津人柿(かき)沢(ざわ)勇(ゆう)記(き)・天沢精之助・秋(あき)月(づき)登(のぼり)之(の)助(すけ)・桑名人立(たつ)見(み)鑑(かん)三(さぶ)郎(ろう)等先ず在り此(ここ)に於て両兵相合わせて宇都宮に向おうと議し(原注:其目的は官軍北(ほく)征(せい)の要路を扼(やく)するに
在りとも云う日光に拠るとも云う)大鳥を推して
総督と為し兵凡そ二千人分で二つと為り一つは水海道(みつかいどう)に由って進み一つは大鳥自ら之を率いて関宿(せきやど)街道(かいどう)を進み十五日諸川(もろかわ)駅(えき)に次(じ)す、諸川(もろかわ)駅(えき)は結城街道関宿の北約三里の地に在り宇都宮及び結城に駐在する官軍は此の報を
余談 関宿  野田市関宿町
得・直ちに敵を逆撃しよう欲し十六日関宿街道の敵兵と小山(こやま)の南で戦う利あらず宇都宮の官軍は退いて小山及び新(しん)田(でん)を守り結城の官軍は其城に還り敵兵は退いて諸川駅に宿す十七日払暁敵兵諸川駅を発し来て小山を攻める祖式金八郎結城に在る諸兵を率いて赴き援け官軍復タ利あらず宇都宮の官軍は宇都宮に退き結城の官軍の中には恣(ほしいまま)に戦地を棄て散らして国に帰るものあり⦅原注:宇都宮及び結城の官軍は衆寡敵せずのみならず一つも
薩長の精兵なく諸藩兵の集合体で概ね訓練足らず兵器も旧式の生兵(せいへい)である故に此の諸敗(やぶ)れあり祖式其用いるに足らずを憤(いきどお)り結城を棄てて去ると云う⦆祖式金八郎遂に結城を棄てて去る(原注:祖式は此後幾ばくもなく
して其職を免じられ国に帰る)残余の官軍退いて宇都宮城を守る水海道の敵兵は下館(しもだて)に至り藩侯に迫って兵器・金銭を借り更に進んで真岡(もおか)を経て十九日宇都宮に迫る彦根兵等城外に出て之を防ごうとしているも力敵せず
余談 下館  筑西市
城に入り防戦する既にして敵兵火を城跡に放つ宇都宮城遂に陥る而して関宿街道の敵兵は其前日壬生藩(みぶはん)の嚮導を得、間道を進んで栃木(とちぎ)を占領し、十九日鹿沼(かぬま)に宿し翌二十日宇都宮に入り水海道の敵兵と合する之に先だち
小山の戦(せん)報(ぽう)、板橋の総督府に達し総督府は我長州藩及び大垣・因州・土州等の兵に命じ分けて二団と為し総野の官軍を応援する我長州藩兵(第一大隊二番中隊司令楢(なら)崎(ざき)頼(らい)三(ぞう)・薩藩二小隊)大垣(一中隊)一団である因州・
土州二藩及び戸田(とだ)(信(しん)州(しゅう)松(まつ)本(もと))有馬(ありま)(下野(しもつけ)吹上(ふきあげ))大久保(旧幕臣)の兵他の一団である共に十六日を以て途に上る長州藩・大垣の兵は十九日幸手に宿す幕府脱走兵の別隊石井駅(いしいえき)に集り将に関宿を略取して官軍を利根川(とねがわ)
余談 戸田=松(まつ)平(ひら)光(みつ)則(ひさ)  有馬=有馬(ありま)氏(うじ)弘(ひろ)
以西で遮ろうとするという状あるとのこと聞き即夜転じて関宿に至る脱走兵が猶岩井駅に在るのを聞き更に進んで石井に向かう二十日朝石井を距てる一里余の地に於て敵と遇(ぐう)し開戦して大いに之(これ)を敗(やぶ)る賊将山中光司会津人渡辺綱之助僅かに身を以て免れる(原注:楢崎の提出兵の日記に遺(い)棄(き)百(ひゃく)余(あまり)とあり官軍は
我銃兵田中甚吉戦死、薩藩と死傷合し数人だけ)五日夜官軍石井駅に宿す二十一日結城に向かって進み境駅(さかいえき)に次し、二十二日利根川を渡って結城に入る賊兵三百尚ホ下館(しもだて)に在り
官軍更に進んで之を撃つ賊兵皆戦わずして走る是より先因州・土州の兵二十日を以て壬生城に入る二十一日宇都宮の賊兵壬生に迫ろうとし幕田(まくた)・安塚(やすづか)の二(ふた)処(ところ)に出る翌二十二日因州・土州兵出て之を撃つ賊兵善く戦う官軍
余談 幕田=宇都宮
殆ど危(あや)うしで纔(わずか)かに克(か)つ此夜因州・土州兵一旦壬生に還る二十三日薩藩・大垣二藩兵の一部壬生の急報に接し赴き援け及ばず此日壬生より進んで宇都宮城に迫る敵兵善く防ぎ容易に抜くこと能わず因って一旦退いて市外に出る時に薩長・大垣三藩の本隊結城を発して宇都宮に向かう小山に至る、比い宇都宮方位に銃声頻りに起こるのを聞き雀宮(すずめのみや)より急行陸(りく)羽(う)街道(かいどう)に由って進み市内に進入し部署を分けて長州藩は八(はち)幡(まん)山(やま)及び明(みょう)神(じん)山(やま)の敵を
攻撃し薩藩・大垣兵は直ちに城郭を攻撃する因州兵亦壬生より来り会し前に市外に退却した薩藩・大垣の先鋒兵亦大いに勢を得、共に進んで敵を攻撃する敵終に支えること能わず城を棄てて日光街道に走る此日戦闘極めて猛烈官軍死傷約百名長州藩兵死者二名(原注:嚮導(きょうどう)河村源之允
鼓手(こしゅ)永田峰太郎)敵兵死者無慮(むりょ)三・四百と云う是に於て官軍止(とど)まって宇都宮を守る既にして土州兵日光附近掃攘の為、宇都宮及び壬生を発し二十九日今市(いまいち)に達し若干の守(しゅ)兵(へい)を
撃破する此夜敵の本隊日光方面を棄て去る(原注:神殿(しんでん)・寺院、兵燹(へいせん)に罹るのを憂い
僧侶より賊に退散を迫ったと云う)彦根藩亦踵(つ」)いで至る因って是より先東山道総督岩倉兄弟は下総(しもふさ)・下野(しもつけ)地方に出て諸兵を指揮しようと大総督に請う閏四月二日忍(おし)城(じょう)に
入る其九日館林に転陣する、尋ねて大総督府の命あり十九日館林を発して二十二日江戸に還る
両(りょう)総(そう)各(かく)地(ち)の掃(そう)攘(じょう)
四月下旬旧幕脱走兵両総各地に聚(しゅう)散(さん)出没し二十二日其一群流山に集るもの将に江戸に入ろうとし千住に向かうとの情報あり二十三日(原注:即ち官軍宇都宮を
回復する日)大総督府・備前兵・佐土原兵に命じ田安(たやす)鎮撫使(ちんぶし)に従う、
行って之を鎮撫させる諸兵鎮撫使と共に即日程に上る千住事なし因って新宿に転陣する賊の一群松戸(まつど)に在り鎮撫使等之を説諭する賊兵器を献じて降(くだ)る他の一軍榎戸(えのきど)の間道より千住に入る佐土原兵因って之に赴き千(せん)住(じゅ)川(がわ)を
余談 榎戸  八街市(やちまたし)
渡り小(こ)塚(づか)原(はら)方(ほう)面(めん)の要地に陣し厳(げん)談(だん)する賊遂に降る会々応援の薩兵一小隊亦至る二十五日薩兵帰陣する時に木更津(きさらづ)屯集の賊兵将に事を挙げようとし須(す)坂(ざか)為に危うい報あり大総督府・備前・佐土原の外更に伊(い)州兵(しゅうへい)に命じ
(原注:即ち伊勢(いせ)・安濃津(あのうつ)
藤堂(とうどう)氏(し)の兵である)均しく八幡(やわた)方面(ほうめん)に進める閏四月朔日より三藩兵要地に進み須坂藩を助けて賊徒に厳談し兵器を納め降伏させる交渉数日、賊兵聴かず三日早天(そうてん)遂に起きて八幡の備前斥候の営(えい)及び伊州斥候の
営を襲う備前兵・伊州兵直ちに之に応じて激戦する衆寡敵せず市川(いちかわ)方面(ほうめん)に退く鎌ケ谷(かまがや)の佐土原兵市川(いちかわ)の伊州兵進んで賊に当る松戸の備前兵亦至る退却の備前兵・伊州兵真(ま)間山(まさん)に於て之に合する諸兵斉しく諸処で奮戦し
互いに勝敗あり遂に賊兵を破り之を走らす賊兵更に船橋(ふなばし)に集合する官軍疲労と寡兵(かへい)とを顧(かえり)みるに遑(いとま)あらず更に勇を鼓し進んで之を撃ち復タ大いに之を破る此日戦(いくさ)已に酣(たけなわ)であるが後、薩藩二小隊江戸より来り両(りょう)国(ごく)
回(え)向(こう)院(いん)駐屯の備前兵亦八幡方面の警報を得て官軍を応援しようとして出て之に赴き船橋に於て敵兵と衝突し戦利あらず(原注:筑前兵(ちくぜんへい)は翌日
両国に帰営する)四日残兵鎮圧の為、薩兵・佐土原兵検(け)見(み)川(がわ)に進み五日佐倉(さくら)に進む賊兵
余談 検見川=千葉市花見区内険見川
真里(まり)谷(やつ)に在ると聞き六日千葉に進む時に三日の警報大総督府に達し更に薩長兵を派して来り援けさせる(原注:長州兵は
余談 真里谷  木更津市
有(ゆう)地(ち)品(しな)之(の)允(じょう)の隊)大村兵亦野州(やしゅう)より来り会する⦅原注:大村兵は伊州兵と共に四月二十日江戸を発し宇都宮
応援に赴くにもかかわらず既に宇都宮回復後であったとして以て江戸・宇都宮の間、運輸路警衛の為・伊州兵と共に関宿(せきやど)に転じ両総の緩急を聞き遂に此地に至ったという)会々賊兵再挙して八幡方面に進出し五井川の
要地を取って之に拠る七日官軍諸方面より進撃し五井川を奪う追撃して姉崎(あねざき)に至り姉ヶ崎城を抜く八日官軍道を分ち薩長・伊州・大村・佐土原は木更津に入り備前及び伊州の分隊真里谷に入り残賊を掃蕩(そうとう)する賊兵既に
余談 姉ヶ崎城  椎津(しいづ)城(じょう)と思われる
遁れて隻影(せきえい)を留めず両総平定する十日より諸藩兵江戸に帰陣する
那須戦争及び白河城占領
四月二十三日官軍が再び宇都宮城を占領するや敵将大鳥圭介(おおとりけいすけ)等は敗兵を率い走って日光に入るにもかかわらず到底守ること能わずと覚り藤(ふじ)原(わら)口(ぐち)より逃れて会津領南会津郡に入る会々会津藩山川大蔵(やまかわおおくら)野洲方面守備兵の
長として田島駅(たじまえき)に至る大鳥等之に投ずる嚮(さき)に軍事教授の為、会津で雇われた幕府の人沼間(ぬま)慎次郎(原注:後(のち)沼間(ぬま)
守一(もりかず))武蔵楼橘等亦来り加わり相議して隊を分ち、部署を定め以て官軍の北進を扼し止めようとし閏四月十八日を
〈頭注〉閏四月十八は幕末実戦史に依る
以て田島駅を発し諸処の要地を守り其一隊は白河城に向かう一隊は板(いた)室(むろ)を本拠とし横沢(よこさわ)村(むら)・油井(ゆい)村(むら)・百村(しもむら)等に分屯し将に南に向って那須原(げん)頭(とう)に突進しようとするものの如し是に於て宇都宮方面の官軍は薩長・大垣・忍の
余談 油井村・百村は塩原市
四藩兵⦅原注:長州兵は第一大隊二番中隊として楢(なら)崎(ざき)頼(らい)三(ぞう)之を率い忍藩兵之に属する、大垣藩届に拠れば大垣分隊閏四月十四日常州(じょうしゅう)野口駅(のぐちえき)の賊を掃蕩し上河野村に進む十八日同所出立二十日大田原(おおたわら)に着、薩長兵と共に
余談 常州野口  常陸大宮市野口
附近の賊を討伐するとあり此分隊とは宇都宮に在った大垣兵の全部か其一部か未詳⦆閏四月十三日宇都宮を発し十五日進んで大田原に入る十六日賊兵塩原(しおばら)に在ると聞き我長州兵及び忍兵二十四人偵察として関谷(せきや)に至り遂に大網(おおあみ)村(むら)を襲う(原注:賊の所在明らかでなかった為肩(かた)印(じるし)を脱し徳川脱走兵と仮称し書を農夫に託し敵兵を誘(さそ)う
敵、数人果たして出て来る官軍遽(にわ)かに之を射撃し逃げるのを追って大網に入ったと云う)敵兵数十当(まさ)に温泉で浴する周章狼狽(しゅうしょうろうばい)・機械(きかい)・輜(し)重(ちょう)を棄て塩原に奔る乃ち大網の陣営を焼き大田原に還る
既にして板室の賊兵将に出て大田原に迫ろうとする官軍は二十日四(し)藩(はん)の兵大田原を発し翌二十一日未明塩(しお)野(の)崎(さき)に至る敵兵の方に進み来るという途に在るのを知り得て兵を三処(みところ)の林(りん)中(ちゅう)で伏して之を待つ、居(い)ること少なくて
余談 塩野崎=塩原市
斥候数人来る直ちに之を擒にする幾ばくもなく敵兵来る官軍三方より急に起こり吶喊(とっかん)して之を撃つ賊大いに驚愕し弾丸を再び填(は)めるに及ばずして敗走する其夜官軍塩野崎で露営する翌二十二日油井村に進み敵と戦う漸く
板室に迫る敵那珂川(なかがわ)を隔てて拒(ふせ)ぐ官軍進むこと能わず薩長両藩決死の士二十一人一隊を為し上流を渡って敵背の山上に出て之を急撃する前面の官軍亦タ之に応じ進撃して大いに敵兵を破り賊将渡辺(わたなべ)某(なにがし)を僵(たお)し、追(つい)躡(じょう)して
板室に入り遂に火を板室・百村・油井村等に放ち大田原に帰る此日宇都宮より続発の長州藩兵(原注:第四大隊一番小隊
司令原田良八)薩藩・大垣両藩兵と共に来着する時に会津兵再び関谷村に拠るという報あり薩藩六番及び我原田隊即夜出発し翌二十三日敵と遭い直ちに之を撃退し追うこと二里余で大田原に帰陣する是時に当り白河方面に於ては仙台藩異(い)図(と)あり九条総督の討ち会いの号令を奉ぜず奥羽列藩の会盟(かいめい)正に成る而して白河城は閏四月二十日
既に会津兵の為に占領される⦅原注:白河城は奥羽鎮撫使の指揮で仙台・二本松・棚倉・平(たいら)・三春の諸藩兵之を守ったにもかかわらず奥羽会盟
正に成った際あったと以て仙台兵は会津と通して守備の地を去り此日会津兵に襲撃されて陥った別章で詳しい⦆
白河は奥羽の関門である大田原の官軍進んで之を抜こうとし二十四日我が長州兵(原注:楢崎中隊の一小隊
及び原田小隊)薩藩・大垣・忍の三藩兵と共に大田原より芦野(あしの)に進み即夜芦野を発して本道より白河に向かう別に薩兵の一部隊
余談 芦野=那須町
黒羽藩兵を嚮導として右方の間道より進む二十五日暁(あかつき)本道の先鋒進んで白河の南に至る敵兵塁(とりで)を各所に設け隘路(あいろ)を扼(やく)して之を守る官軍進んで之を攻め薩長両藩士刀(かたな)を揮(ふる)う突貫して敵(てき)堡(ほう)に迫る敵亦善く拒(ふせ)ぎ肯(あ)えて退かず官軍遂に志を得ずして退却し芦野に還る間道より進んでいる薩兵は黒羽藩兵が来着(らいちゃく)遅延(ちえん)の為、予定の方向に行進すること能わず戦闘将に終わろうとする比ふ纔(わず)かに来って本軍に加わり此日官軍死傷多く長州藩兵死者五名
傷者二十五名に及び既にして後(こう)軍(ぐん)大田原より至り官軍兵(へい)威(い)復タ振るう乃ち五月朔日を期して白河城を攻略しようと欲し其部署を定めること左の如し
本道   長州藩大砲一門及び第四大隊三番中隊原田小隊(原注:長州藩仮称三番隊の口羽(くちば)小隊も亦
本道より進む但し計画中には此事なし)
薩藩大砲二門狙撃隊二十人忍藩大砲一門
大垣藩一中隊(原注:此大垣兵は本道より
東山道の間道を進んだようだ)
左側隊  長州藩一中隊即ち第一大隊二番中隊(原注:楢(なら)崎(ざき)
頼(らい)三(ぞう)司令)
薩藩大砲一門及一小隊
大垣火箭砲(かせんほう)一門及一中隊
忍藩一小隊
右側隊  薩藩大砲一門及び二小隊
官軍の攻撃法は正面の本道皮(かわ)籠(ご)の方向に各藩の重砲を集めて遠距離より射撃を以て敵を牽制し
余談 皮籠=白河市白坂皮籠
歩兵の主力を左側即ち黒川(くろかわ)通りに出し白河の西方より攻撃させる右側隊は白坂(しらさか)より右に折れた
間道を進み白河の東方に突出し以て三面より城を挟撃しようとしたという
五月朔暁天(ぎょうてん)官軍芦野を発し白坂に於て分かれて各自の部署に向かう本道の大砲先ず戦を開き左側隊進んで敵堡に迫る敵兵善く拒(ふせ)ぐ長州藩兵約十五人死(し)を決(けっ)して敵堡に突入するあり他の諸藩亦タ三五人を一団として逐次(ちくじ)
之に従う守兵を鏖(おう)殺(さつ)し遂に市内に驀地(まっしぐら)に入る右側隊亦タ来て市内に入り正午(しょうご)頃(ごろ)遂に城を占領し更に本道を守る敵の背後を撃つ敵前後で攻撃を被り進退谷(きわ)まり殆ど全滅する本道の砲隊亦タ進んで市内に入り白河城市(じょうし)全く
官軍の手に帰す此日官軍死傷約七十人あり長州藩死者一人傷者十三人・中隊司令楢崎頼三微傷(びしょう)を被り薩藩参謀伊(い)地(じ)知(ち)正(まさ)治(はる)亦傷つく

19/09/2024

付記 有(あり)馬(ま)藤(とう)太(た) 薩摩藩士。
近藤勇に降伏を勧告し、これに応じた近藤を越谷まで連行することになった。
その後、結城城奪還など北関東の鎮撫にあたる。            秋(あき)月(づき)登(のぼり)之(の)助(すけ) 会津藩士。
宇都宮の戦いでは、土方歳三と共に戦い、
母成峠の戦いで目撃されたのを最後に消息不明。
青(あお)木(き)研(けん)蔵(ぞう) 長州藩医。
周防(すおう)国(のくに)大島郡和(わ)田(だ)村(そん)(大島町(おおしままち)和田(わだ))出身。種痘で伝染病予防に努めた。
明治2年、明治天皇の大典医(だいてんい)(萩の人物データベース引用)。    五(いつ)辻(つじ)弾(だん)正(じょう)大(だい)弼(ひつ) 公家。五(いつ)辻(つじ)安仲(あんなか)。
王政復古を迎え、三職・書記・御用掛となり、
慶応4年2月20日、参与などに任じられた。
井上(いのうえ)石見(いわみ) 薩摩藩士。井(いの)上(うえ)長(なが)秋(あき)の通称。
岩倉具視ら討幕派の公家と藩との連絡をはかり、
慶応4年、新政府から参与、箱館府判事を命じられた。伊庭(いば)八郎(はちろう) 幕臣。遊撃隊隊長。
箱根の戦で片腕を失い函館に向かい、銃創(じゅうそう)を負い戦死。
池永小五郎 長州藩士。鋭(えい)武(ぶ)隊(たい)。
周(しゅう)南(なん)市(し)戸(へ)田(た)生まれ。明治元年5月15日、団子坂で戦死。享年22歳。
湯野(ゆの)神社(じんじゃ)に原虎之助と共に眠る。                池田(いけだ)大隅(おおすみ)守(のかみ) 旗本。池(いけ)田(だ)長(なが)裕(ひろ)。彰義隊頭。
 上野戦争で敗れ、磐城平・五稜郭に逃れた。
上(うえ)田(だ)楠(くす)次(じ) 土佐藩士。
投降した大久保大和を近藤勇と見破り、
その斬首を強硬に主張した。   内山久之進 長州藩
五月十六日長州より御届之(おとどけの)写(うつし)。
深手陣営で死。「太政官日誌 江(こう)城(じょう)日誌 慶応4年6号より」引用。
大木(おおき)民(みん)平(ぺい) 佐賀藩士。大(おお)木(き)喬(たか)任(とう)の通称。
東京(とうきょう)遷都(せんと)に尽力して東京府知事となる。岡(おか)田(だ)将(しょう)監(げん) 旗本・美濃郡代。岡田(おかだ)善(よし)同(あつ)の別名。
家康の信任が厚く、名古屋城築城奉行・大坂の陣の陣奉行
山田(やまだ)奉行(ぶぎょう)として伊勢神宮造営にも尽力する。
岡田(おかだ)斧(おの)吉(きち) 幕臣。
遊撃隊に参加し参謀を勤め、
箱根敗戦後も隊を率いて東北転戦。堅田(かただ)大和 長州藩家老。堅(かた)田(だ)少(しょう)輔(すけ)の通称。
討幕軍山陽道出兵総督に任じられ、明治元年1月福山城を攻略した。
烏(からす)丸(まる)光(みつ)徳(え) 公家。
慶応4年8月20日付で初代東京府知事となり、
明治2年9月に宮内庁(くないちょう)大輔(たいふ)となる。    楫(か)取(とり)素(もと)彦(ひこ) 長州藩志士。
小田村家(おだむらけ)の養嗣(ようし)となって小田村伊之(おだむらいの)助(すけ)と改めた。

花(か)山(ざん)院(いん)家(いえ)理(のり) 公家。侍従(じじゅう)・正(しょう)三位(さんみ)。
左近衛権中将(さこんのえごんのちゅうじょう)。明治1年1月20日、周防(すおう)
室積(むろづみ)(山口県光市)に於て拘禁(こうきん)され、京都へ護送される。柿(かき)沢(ざわ)勇(ゆう)記(き) 会津藩士。
4月23日の宇都宮の戦いで負傷し、日光で没する。享年36歳。
河村源之丞 長州藩士。施(し)条(じょう)銃(じゅう)足軽(あしがる)。第一大隊嚮導。
明治元年4月23日宇都宮で戦死。享年32歳。海江田(かいえだ)武(たけ)次(じ) 薩摩藩士。海江田(かいえだ)信義(のぶよし)の通称。
大村益次郎と彰義隊の作戦などで悉く対立した。
春日(かすが)左(さ)衛門(えもん) 旗本。
陸軍隊隊長として東北各地を転戦し、箱館戦争へ参戦した。覚(かく)王(おう)院(いん)義(ぎ)観(かん) 天台宗僧侶。
上野山内に屯集した旧幕臣有志を保護。
来島(きじま)亀之助 長州藩士。来島(きじま)又兵衛(またべえ)の初名。
遊撃隊総督。蛤(はまぐり)御門(ごもん)の戦いで、薩兵の銃撃隊から狙撃で胸を撃ちぬかれ、
自ら槍で喉を突いた後、首を刎(は)ねられて死亡。享年48歳。      山東(さんとう)一郎 紀州藩士。山(さん)東(とう)真(なお)砥(と)の通称。
真言宗の僧侶。明治元年箱館府権判府事となる。
島津(しまづ)淡路(あわじ)守(のかみ) 佐土原藩主。島津(しまづ)忠(ただ)寛(ひろ)の官位。
薩藩に従って新政府側として参戦。明治元年6月、
明治天皇より錦(にしき)の御旗(みはた)を賜る。清(し)水(みず)谷(だに)公(きん)考(なる) 公卿。
戊辰戦争が勃発すると、蝦夷地鎮撫を朝廷へ進言し、
箱館裁判所総督に任命された。
椙原治人(すぎはらはるなんど) 萩藩士。
宍戸璣(ししどたまき)と共に幕府問(もん)罪(ざい)使(し)応接の任にあたった。杉浦(すぎうら)兵庫頭(ひょうごのかみ) 旗本・箱館奉行。杉(すぎ)浦(うら)梅(ばい)潭(たん)の官位。
杉浦(すぎうら)誠(まこと)は改名。
江戸城明渡し後も箱館にとどまり、奉行所のあった五稜郭を
清(し)水(みず)谷(だに)公(きん)考(なる)に引渡した後、江戸へ帰任する(函館市文化・スポーツ振興財団資料引用)。
祖式(そしき)金八郎 萩藩士。
東山道先鋒総督府東征軍内参謀として、前橋へ進軍。高田健之助 長州藩士。国(こく)司(し)純(すみ)行(ゆき)の旧名。
養父親相が自害のため家名断絶となり「高田健之助」と名乗る。
田中甚𠮷 長州藩士。施条銃足軽。第一大隊。
明治元年4月2日下総石井で戦死。享年24歳。墓碑には22歳とある。
高(こう)声(しょう)寺(じ)(坂東市(ばんどうし)岩井3478)に眠る。伊(だ)達(て)将(しょう)監(げん) 水沢(みずさわ)伊達家当主。
伊達邦寧(だてくにやす)とも呼ばれる。留(る)守(す)邦(くに)寧(あき)。伊(だ)達(て)慶(よし)邦(くに)の代理として白河口に出陣する。
寺島(てらしま)秀之助 長州藩士。寺島(てらしま)秋(あき)介(すけ)の通称。
上野戦争で団子坂口(文京区千駄木二丁目付近)の
諸藩兵の総指揮を担当。            楢(なら)崎(ざき)頼(らい)三(ぞう) 萩藩士。
毛利元(もうりもと)徳(のり)に近侍(きんじ)する。勝沼・宇都宮・白河・会津で戦功を挙げた。
中井範五郎(なかいはんごろう) 鳥取藩士。
大総督府監軍となり、5月20日小田原藩兵に箱根で殺された。享年29歳。永田峰太郎 長州藩士。施条銃足軽。第一大隊鼓手。
宇都宮で戦死。享年15歳。河村源之丞と共に報恩寺(ほうおんじ)(宇都宮市西原一丁目4-12)に眠る。
林(はやし) 半七 萩藩士。林(はやし) 友(とも)幸(ゆき)の通称。
戊辰戦争でも活躍。新政府の会計官(かいけいかん)権判事として盛岡藩に派遣。原虎之助 長州藩。鋭武隊。
上野山門で戦死。享年27歳。湯野神社(周南市湯野4367)で池永小五郎と共に眠る。
広沢(ひろさわ)兵助 長州藩士。広沢(ひろさわ)真(さね)臣(おみ)の旧名。
慶応3年10月には利通(としみち)らと共に討幕の密勅の降下にも
尽力するなど倒幕活動を推進させた。       平川(ひらかわ)和太郎 土佐藩士。平川光(ひらかわみつ)伸(のぶ)の通称。
近藤勇が投降するきっかけを作った光伸など
3名の策略によると言われている。
福原(ふくはら)清(せい)介(すけ) 萩藩士。神職
船の建造・外国船の購入を担当し、その後、大(おおやま)和(と)神(じん)社(じゃ)(天理市)などの宮司(ぐうじ)をつとむ。福岡(ふくおか)藤次(とうじ) 土佐藩士。福岡(ふくおか)孝(たか)弟(ちか)の通称。
慶応3年、参政に就任。公議(こうぎ)政体論(せいたいろん)を藩論とし、
龍(りょう)馬(ま)や海援隊、陸援隊と提携する。
堀(ほり)真(しん)五(ご)郎(ろう) 長州藩志士。
戊辰戦争では徴(ちょう)士(し)内(ない)国(こく)事務局判事。明治元年10月、旧幕軍が蝦夷地へ上陸を開始すると
侵攻(しんこう)を阻止するため防戦したが敵(かな)わず、青森へ逃れる。               万里小路(までのこうじ)道房(みちふさ) 公家。
閏4月、東下する実(さね)美(とみ)に随行し、同月権右(う)中(ちゅう)弁(べん)となる。
松岡梅太郎 萩藩士。
上野戦争で戦ったのち、箱根で旧幕軍を攻撃中、
銃弾を受け、慶応4年6月24日死去。享年22歳。美和内蔵主 長州藩士。第一大隊補助長官。
佐(さ)波(ば)郡(ぐん)伊賀地(いがち)(山口市徳(とく)地(ぢ)伊(い)賀(が)地(ち))住。明治元年9月10日磐(いわ)城旗巻(きはたまき)峠(とうげ)で負傷、
旗巻峠=丸森町大内~相馬市初野(はつの)の間。
14日同国中村病院で死去(相馬市洞(とう)雲寺(うんじ)資料引用)。
御(み)堀(ほり)耕(こう)助(すけ) 長州藩士。
慶応3年、参政となり小松(こまつ)帯刀(たてわき)などと倒幕の実施計画について会談。毛利(もうり)讃岐(さぬき)守(のかみ) 清(きよ)末(すえ)藩主(はんしゅ)。毛(もう)利(り)元(もと)純(ずみ)の官位。
第二次長州征伐では、大村益次郎と協力して浜田藩の軍勢を打ち破った。
山県(やまがた)小太郎(こたろう) 岡藩士。
若松城攻めで功があった。維新後に兵部省(ひょうぶしょう)・海軍省に勤めた。龍(りゅう)王院(おういん)尭(ぎょう)忍(にん) 東叡山普門院執当。
輪王寺宮法親王に従って捕らえられたが、無罪となり越後に隠居した。
姉ヶ崎(あねがさき)=市原市姉崎にあり、JR東日本内房線の駅付近。和泉(いずみ)橋(ばし)=千代田区を流れる神田川に架かる昭和通の橋。河東(かとう)操(そう)練場(れんじょう)=京都市左京区吉(よし)田(だ)上(かみ)阿(あ)達(だち)町(ちょう)周辺にあった練兵場。
黒山(くろやま)八幡宮(はちまんぐう)=山口市鋳銭司(すぜんじ)4009番。西城村(さいじょうむら)=熊谷市西城。真乗院(しんじょういん)=港区芝公園2-11-9。新田(しんでん)=草加市金(きん)明(めい)町(ちょう)道(みち)下(した)の東武伊勢崎線(新田駅)付近。
泉(せん)涌(にゅう)寺(じ)=京都市東山区泉涌寺山内町(やまのうちちょう)27。智(ち)観(かん)寺(じ)=飯能市中山520。天王寺(てんのうじ)=台東区谷中7-14-8。東福寺(とうふくじ)=京都市東山区本町(ほんまち)十五丁目78。
仲(なか)町(ちょう)=台東区北上野一丁目。日華門(にっかもん)=京都市上京区京都(きょうと)御苑内(ぎょえんない)。能(のう)仁(にん)寺(じ)=飯能市飯能1329。法(ほう)恩寺(おんじ)=墨田区大平一丁目26-16。
飛雲閣(ひうんかく)=京都市下京区堀川通花(はな)屋(や)町(ちょう)本願寺門前町。霊源寺(れいげんじ)=京都市北区西(にし)賀(が)茂(も)今(いま)原(はら)町(ちょう)41。
上野山(うえのやま)下町(したちょう)=台東区上野七丁目。上野(うえの)北(きた)大門(だいもん)=台東区上野一・二丁目。酒匂(さかわ)川(がわ)=神奈川県を流れる河川。
流域面積582 ㎢。延長46㎞。大(だい)谷(や)川(がわ)(日光)=日光市を流れる利根川水系鬼怒川の河川。
流域面積259㎢。延長29.9㎞。
囲(い)城(じょう)=軍勢が城をとりかこむこと。鬼喰(おにく)い=貴人にさしあげる食物を試食、毒見すること。億(おく)万一(まんいち)=実現の可能性のきわめてひくいさまを表わす語(ことば)。
鞠躬(きっきゅう)=身をかがめて敬いつつしむこと(漢語林参照)。軍労(ぐんろう)=いくさでたてた手柄。航程(こうてい)=航空機や船舶で行く道のり。魂(こん)気(き)=たましい。霊魂(漢語林参照)。
召置(しょうち)=呼び寄せて身近に置くこと(辞典オンライン引用)。上阪(じょうはん)=地方から大阪へ行くこと。西帰(せいき)=西へ帰ること。また、死去すること。賊営(ぞくえい)=賊のたむろするところ。
朝(ちょう)紳(しん)=朝廷に仕える身分高く品位のある人。澱(でん)江(こう)=大阪の淀川(よどがわ)の中国風の別称。遠懸(とおかけ)=馬を駆(か)って遠くまでかけめぐること。頒(はん)賜(し)=分賜(ぶんし)する。
叛(はん)謀(ぼう)=国家などの権力機構に背いて兵を起こすこと。分屯(ぶんとん)=軍隊をいくつかに分けて駐屯させること。流(りゅう)芳(ほう)=名を後世(ごせ)に残すこと。
丙(へい)寅(いん)丸(まる)=長州藩軍艦。英国で建造。
全長40余メートル。30馬力・大砲6門を備えた。

19/09/2024

閏四月
又命を公に下し世子の帰着を待ち上洛させる
長  門  宰  相
余談 長門宰相  毛利元(もうりもと)敏(とし)
御用之儀有之候間長門守帰着(きちゃく)次第(しだい)早々上京致し候様御沙汰候事
(脚注)世子は三月二十一日黒山(くろやま)八幡宮(はちまんぐう)行幸(ぎょうこう)の供奉(ぐぶ)二十三日大阪に着し鴻池(こうのいけ)の別荘に宿し二十六日天保(てんぽう)山沖(ざんおき)行幸供奉晦日(みそか)大阪城見分(けんぶん)四月五日大阪城行幸諸藩兵天覧(てんらん)陪観(ばいかん)
同日世子京を発し十五日大阪より英国艦に駕(が)し十六日夜半三田尻に着し十八日山口に着し直ちに公の館に上がり公に便(びん)殿(でん)で謁(えっ)し三顧(さんこ)の礼(れい)あり始め
世子が京を辞するか謝恩(しゃおん)の表(おもて)を上がり并(なら)びに公病(やまい)あり平(へい)癒(ゆ)上洛に至るという間朝(ちょう)旨(し)は一(ひとつ)に之を毛利(もうり)讃岐(さぬき)守(しゅ)に伝えることを請う、兼ねて朝批(ひ)して
公の上洛を促す
私(わたし)儀(ぎ)国情不得止次第を以て兼ねて帰国御暇の儀願出(ねがいで)置き候処暫く被遂に御許容(ごきょよう)且つ望外(ぼうがい)の
御沙汰を奉蒙重畳難有(ありがたし)奉畏候(かしこみたてまつりそうろう)猶同氏大膳(だいぜん)大夫(たいふ)御用の儀有之候間私帰国次第早々可致(いたすべく)
上京候の旨別段御沙汰被為在候(あらせられそうろう)に付いては久々病気罷在(まかりあり)候処精々療養(りょうよう)相加え少しも快(こころよ)く
候ハバ早急上京可仕(つかまつるべく)にて可有御座其内末(ばっ)家(け)讃岐守(さぬきのかみ)闕下相詰候様仕候(つかまつりそうろう)間相応の御用向き
被仰付候(おおせつけられそうろう)様奉存候(ぞんじたてまつりそうろう)此段宜しく御執奏所(しっそうじょ)仰せ御座候 以上
閏四月十二日             長  門  少  将
(朝批)
大膳大夫病気快方候ハバ御沙汰の通り迅(じん)速(そく)可(いたす)致(べく)上京其(その)中(なか)讃岐守へ御用向きの儀
被聞召置(ひぶんしょうち)候事(閏四月十八日)
既にして公朝命(ちょうめい)に遵(したが)い将に上洛しようとし首途(しゅと)の期を定めて五月十一日とする五月三日公親書(しんしょ)を発して諸士に諭す
今度別紙(原注:前に出す所の上洛の
命令書にあたる)の通(とおり)従う朝廷被仰出(おおせいだされ)我等の面目無し此上儀と存候依之(ぞんそうろうこれによって)此往く不奉(たてまつらず)
恩命(おんめい)では奉対(ほうたい)天朝恐入候(おそれいりそうろう)事に候条於家来の中も此旨篤と相(あい)心得(こころえ)可遂奉公もの也
戊辰五月
祖宗(そそう)已(い)来(らい)我等父子に到る迄勤王の大義終始不相愉候事勿論に候然処(しかるところ)近来国家紛擾(ふんじょう)我等の主意を体(てい)し
難に殉じ節に死するもの不少(少なからず)終に上下の誠意稍(やや)徹し辱(かたじけな)くも王政御一新の御場合に至り候に付いては
上祖宗(そそう)の霊(れい)を慰め下殉難死(し)節(せつ)の者地下に瞑目(めいもく)させ候覚悟で弥(いよいよ)天下平定朝(ちょう)威(い)相輝き候迄は我が家を顧みるに
遑(いとま)なし王事(おうじ)に鞅掌(おうしょう)し無(む)二(に)の忠(ちゅう)誠(せい)相尽くし度依之左の通大綱(おおづな)相立候事(あいたちそうろうこと)
一天下平定に及び候迄は父子の間(あいだ)一人闕下(けっか)に相詰(あいつめ)候事
但し先日御沙汰の旨も有之本文の通相決し候其内時機に相因り進退相願候(あいねがいそうろう)儀も
可有之(これあるべく)候
一陸軍大略五千人緩急(かんきゅう)順序(じゅんじょ)を以て出張可申(もうすべく)付き候事
但し五千人は二州の力を計り相定め候其(その)余(あまり)の兵員は二州不虞(ふぐ)に相備え候
一海軍
但し戦艦未だ備え候得共陸軍に準じ可致駈引(かけひきいたすべく)候事
一逆賊(ぎゃくぞく)為(のため)征討東道(ひがしどう)北陸(ほくりく)へ出張申付候(もうしつけそうろう)諸軍一致の心得勿論に候就中(なかんづく)薩長同心戮(りく)力(りょく)の儀は天下偏(あまね)く所(しょ)知(ち)で
益(ますます)熟和(じゅくわ)いたし不申(もうさず)テハ不相済(あいすまず)事に候条此旨厚く相心得可遂忠(ちゅう)戦(せん)候段速やかに出先へ示(し)諭(ゆ)致し置き候事に付
於家来中も心得違い無之(これなく)様可到(いたさず)候事
戊辰閏四月
十一日早暁(そうぎょう)公山口を発する
旧記に拠ると当時上京随行を命ぜられた吏員(りいん)其他の人名左の如し
五月九日命               高 田 健 之 助
同上                  楫(か)  取(とり) 素(もと) 彦(ひこ)
閏四月廿二日命干(かん)城(じょう)中隊諸駈引(かけひき)      福  原 又 市
五月八日命御用所御内用役        林(はやし)  半  七
閏四月廿四日命御乗艦(じょうかん)中(ちゅう)御用駈引   来(き) 島(じま) 亀 之 進
閏四月廿四日命上国(じょうこく)諸病院(しょびょういん)管轄(かんかつ)    竹 田  祐 伯
河 内 山 左 衛 門
大(おお)  庭(ば)  此  面
井  上  兵  部
河(かわ) 北(きた)     一(はじめ)
神 村 喜 兵 衛
光 永 新 四 郎
粟  屋 東 一
南  東   助
宍(しし) 戸(ど) 源 太 郎
内 藤  順 太
井 上  李 輔
高 洲  勝 馬
佐 々 木 源 蔵
福 原 三 五 郎
高 杉 弁 蔵
福 間 金 次 郎
布  施   保
井 上 六 郎 右衛門
美 和 内 蔵 主
久 芳 五 郎 右衛門
山  田    恰
竹 田  省  吾
高 橋  譲  輔
勝 木  裕  三
以上閏四月廿八日命御小姓(おこしょう)で御奏(そう)者(しゃ)打廻りを兼ね又右人数の内より第一大隊
二中隊補助長官駈引所勤めを命ず
(原注:閏四月廿八日命
御旅館式台(しきだい)詰)  干城補(ほ)備(び)中隊二十人即ち
田 阪 半 左衛門
国(くに) 司(し) 織 部之介
榎 本 虎 之 助
南  方 又  輔
志  道  主 税
冷 泉  新  八
三 井 助 太 郎
赤 川 勘 兵 衛
桂 四 郎 兵 衛
杉 原 平 右衛門
小 方 市 熊 槌
徳 田 虎  之 允
藤 井 恒 之 進
末 岡  半 蔵
中 澤  清 七
五月十日免          宍 道 五 郎右衛門
粟  屋  勘  治
三  上  百  助
香 取 一 之 助
閏四月廿八日         岡  田  以 伯
同上             中  所  仁 蔵
同上             都 野 弥 四 郎
同上             飯 田  宗 治
(原注:閏四月二十八日命根役より
御廊下番鬼喰(おにく)い役を兼ね)  林  乙  熊
同上            粟 屋 八十 二郎
(原注:閏四月二十八日根役より
御膳立(おぜんだ)て役を兼ね)  磯 辺 平 十 郎
同上            三 吉 四 郎 兵衛
尾  崎  半  蔵
植 木 次 郎 兵衛
田  原 三 之 允
福  間  寿  悦
本 間  新 三 郎
隅  田  祖  春
大  田  市  郎
小 野 田 由 久次郎
以上閏四月廿八日命
閏四月廿八日命      中  井  与  三
閏四月廿八日命      青(あお)  木(き)  研(けん)  蔵(ぞう)
(原注:閏四月廿三日根役より
御目付役を兼ね) 椙(すぎ) 原(はら) 治(はるな) 人(ど)
(原注:五月一日補備隊に
十人諸駈引用掛)   内 藤 左 兵衛
同上            三  隅 作 蔵
上 山  縫 殿
閏四月廿二日命       御(み) 堀(ほり)  耕(こう) 助(すけ)
服 部  半 七
閏四月廿四日命       二  中  隊
(原注:閏四月廿八日命
四役の者半小隊管轄)  御駕籠奉行一人
閏四月廿八日命       四役の者二十五人
御(お) 仕(し) 立(たて) 師(し)
閏四月廿九日命       本 間 簔 蔵
十二日午(ご)下(か)三田尻より汽船廻航(かいこう)(原注:英国商汽船「セトムス」を雇用する剰員(じょういん)は
乙(いっ)丑(きゅう)艦に乗せ汽船として曳かせる)風浪悪し航程(こうてい)自由ならず十六日に及び纔(わず)かに大阪河口(かこう)に達す風雨猶暴れ翌十九日を待って上陸し鴻池(こうのいけ)善五郎別荘に宿し暫く
留まって休養する二十日世子議定(ぎてい)職(しょく)を罷(や)められる屡々請う所あった以てという二十八日公大阪肥前(ひぜん)守(のかみ)前(まえ)邸(やしき)の前より乗船し澱(でん)江(こう)を遡り伏見に至って一泊し翌二十九日京に入り西(にし)本願寺(ほんがんじ)に宿す(原注:白沢の
余談 肥前守  大阪城代と思われる
書翰で旅館を本願寺に定めたことを記して曰く河原町(かわらまち)御殿(ごてん)・文(ぶん)武(ぶ)屋(や)敷(しき)とも差(さ)向(むけ)不相整え事に付無拠(よんどころなく)西(にし)六(ろく)条(じょう)に御仕構仕(し)候(そうろう)事(こと))時に毛利(もうり)淡路(あわじ)守(のかみ)亦将に参(さん)朝(ちょう)しようとし此月二十日藩地より大阪に着し二十二日
曩及び二十六日公を其旅館に誘い二十八日伏見に着し二十九日入京する(原注:淡路守亦参朝の意あり閏四月二十八日本(ほん)藩(ぱん)より徳山(とくやま)に達し其期を
五月十一日即ち公・東上発(とうじょうはっ)船(せん)と同日に定めさせ乗船は丙(へい)寅(いん)丸(まる)を貸与する)晦日(みそか)天皇五(いつ)辻(つじ)弾(だん)正(じょう)大(だい)弼(すけ)を勅使として公と西本願寺の旅館に
慰問する公病(やまい)の故(ゆえ)を以て毛利少輔三郎として接待する勅使勅(ちょく)語(ご)を口(こう)宣(せん)し鯉(り)魚(ぎょ)一(いち)桶(おけ)(原注:七(しち)
尾(び))を賜う 
(勅書)
多年勤王之儀は申す迄も無之今度御一新御大業御基礎相立候事全て長門宰相島津(しまづ)中将(ちゅうじょう)
余談 島津中将  島津久光
両人之偉(い)勲(くん)でないようだ殊に息少将速やかに上京段々効力王事且(かつ)往々(おうおう)出兵(しゅっぺい)励戦致し今日候段
実に叡感(えいかん)之至り益(ますます)御依頼被遊候(あそばされそうろう)より更に上京被仰出(おおせいだされ)候処扶け所労上着之段御満足大いに
被安宸衷(じんちゅう)候猶緩々(かんかん)加え保養在京有之朝廷の柱石(ちゅうせき)だろう事を思食候(おぼしめされそうろう)右等之趣猶巨細御対面の上
御沙汰可被為有(あらせられるべく)候得共不取敢(とりあえず)以て御使い此段被仰下且為御尋ね賜り鯉魚候事
五月晦日
同日午後岩(いわ)倉(くら)右(う)兵(ひょう)得(え)督(かみ)(原注:具(とも)
              視(み))来館する公微(び)恙(よう)の故を以て寝室で延(えん)見(けん)する右兵衛督公(こう)事(じ)を以て相謀る所あるだろうとするを以てという(原注:岩倉蒸菓子(むしがし)
松(しょう)魚(ぎょ)各(かく)一(いち)函(はこ)を携え)因って酒肴を供し随従の官僚を召し時事を謀議(ぼうぎ)し
且つ款待(かんたい)する六(ろく)月(がつ)朔(ついたち)島津(しまづ)修理(しゅり)大夫(のだいぶ)(原注:忠(ただ)
義(よし))来訪する公燕(えん)室(しつ)で延見し酒肴を供し官僚として席に持し款待する又東征(とうせい)随行(ずいこう)諸軍の司令士等に謁を賜う二日公参朝(さんちょう)天顔(てんがん)を拝し勅語天(てん)盃(ぱい)を賜う又御包(おくるみ)(原注:御懐中(かいちゅう)
御煙草入(たばこいれ)具蠟(ろう)石(せき)御硯(おすずり)銀御盃(おさかずき))を賜う
(勅語)
長  門  宰  相
邂逅(かいこう)上京先ず以て満足候従前之件々不可言儀に立ち致し候処内外大難を凌ぎ鞠躬(きっきゅう)尽力終に朝廷として
今日有と致せる偏に汝(なんじ)至誠(しせい)之致す処感喜(かんき)述べるに辞(ことば)なし然れども朕(ちん)不徳かかる大創業の事今日より
以往(いおう)之処置如何と夙(しゅく)夜(や)懸(け)念(ねん)候条汝益朕を扶け宜しく早く天下平定万民安堵に到るべく様偏に勉励依頼候
長  門  宰  相
当職被仰付(おおせつけられ)度思召(おぼしめし)に被為有候(あらせられありそうろう)得共所労相扶(そうふ)押し而も上京之儀故先ず御猶予被為有(あらせられ)候間大事有之節被召(めされ)候者
必可有参上且車寄せ昇降(しょうこう)可有之事(これあるべくこと)
但し以来参(さん)上之(じょうの)砌(みぎり)者(のもの)議定職候所へ参入且車寄せ昇降可有之事
六月二日
同日有栖川宮(ありすがわのみや)・鷹(たか)司(つかさ)家(け)亦均しく各(おのおの)鯉魚二尾を贈り賀を致す
余談 鷹司家  鷹(たか)司(つかさ)輔(すけ)熙(ひろ)
三日毛利(もうり)淡路(あわじ)守(のかみ)・吉川芳之(きっかわよしの)助(すけ)来賀(らいが)する四日公飛雲閣(ひうんかく)を遊覧する八日西郷吉之助関東より還り
来り候する公便殿で延見し関東の事情を聞き茶菓(ちゃか)を供する九日公泉(せん)涌(にゅう)寺(じ)に詣(けい)し諸(しょ)陵(りょう)を拝し
東福寺(とうふくじ)に至り先年戦死者の霊を弔慰(ちょうい)し金(かね)若干を霊源寺(れいげんじ)に賻(おく)らず、十日吉川芳之助・公を来訪し
城主格に列するのを謝し(原注:昨九日
参内(さんだい)拝命(はいめい))其令書を公の覧に供する
吉(きっ) 川(かわ) 駿(する) 河(が) 守(のかみ)
余談 吉川(きっかわ)経(つね)幹(まさ)
曩(のう)祖(そ)元(もと)春(はる)朝(ちょう)臣(しん)忠勇(ちゅうゆう)抜群(ばつぐん)補佐宗家勤労王事(おうじ)武門之亀(き)鑑(かん)に候処奕(えき)世(せい)・流(りゅう)芳(ほう)其方代わりに至る迄宗家に対し恭順を守り
宗家に於いても友愛之道を尽し其方(そちら)祖先之来由(らいゆ)申立有之加之(しかのみならず)其方宗家宰相父子を助け竭忠誠明大義本来共勤王之実効
訳 忠誠を竭(つ)くし、大義を明らかに
倍相顕わし候段叡感不斜候(ななめならずそうろう)仍之(これによって)先般宗家申立之通諸侯列ね被仰付(おおせつけられ)候処猶又今般城主格(じょうしゅかく)被仰付候事
六月
十三日毛利(もうり)讃岐(さぬき)守(のかみ)十四日吉川芳之助京を発し国に帰る並びに朝廷に請う暇(いとま)を賜ったとい
十六日公往(い)って鷹司家を訪う二十二日公・我在京大隊堀河(ほりのかわ)の屯営を視る二十三日朝・公・参朝(さんちょう)して誓約を為す了わって菓子を
賜る午(ご)下(か)帰(き)館(かん)する二十六日公出て中御門(なかみかど)・坊(ほう)城(じょう)家(け)・三条(みじょう)西(にし)・壬生(みぶ)等の諸(しょ)卿(きょう)を歴訪(れきほう)し越前邸に至って還る宗(そう)対馬(つしま)守(のかみ)来訪する公
余談 宗対馬守  宗(そう) 義(よし)達(あきら)
遠見して茶菓を饗(きょう)する二十七日壬生・三条西二卿来訪する公便殿で延見する二十八日復タ参朝する菓子を賜る既に帰館して之を
干城隊に頒(はん)賜(し)する

第 七 章  江戸開城と関東の形勢
勅使江戸入城○慶喜の水戸隠退○大総督宮の江戸着○田安侯の江戸鎮撫
○榎本(えのもと)等の品(しん)海(かい)脱走(だっそう)○各地の擾乱(じょうらん)○江戸市中の情態○三条卿及び大村益次郎の東下
余談 品海  東京湾
○関東平定○白河平(ひら)潟(かた)両方面の官軍発展
三月二十九日西郷吉之助が東海道官軍総督の本営池上本門寺に至って朝旨を橋本・柳原二卿に伝えるか
二卿より之を田安(たやす)中納言(ちゅうなごん)に達し勝安房(かつあわ)亦屡々本門寺より往来し四月四日勅使遂に江戸城に入り左の命を
余談 田安中納言  徳(とく)川(がわ)慶(よし)頼(より)
下し晩に及び帰営する
第一ヶ(だいいちか)条(じょう)
慶喜去る十二月以来奉欺天朝剰(あまつさ)え兵力を以て犯す皇(こう)都(と)連日錦旗に発砲し重罪であるに依り
為追討(ついとうのため)官軍被差向(さしむけられ)候処段々真実(しんじつ)恭順謹慎の意を表し謝罪申出(もうしで)に付いては祖宗(そそう)以来(いらい)二百余年
治国之(ちこくの)功業(こうぎょう)不少(すくなからず)殊に水戸贈大納言勤王志業不残(しぎょうあさからず)旁ら以て格別之思召(おぼしめし)被為在(あらせられ)左之条件実行
相立候上は被処寛(かん)典(てん)徳川家名(かめい)被立下慶喜死罪一等(しざいいっとう)被宥之間水戸表へ退き謹慎可罷在(まかりあるべき)之事
第二ヶ(だいにか)条(じょう)
城明渡し尾張藩へ可相渡(あいわたすべく)之事
第三ヶ(だいさんか)条(じょう)
軍艦銃砲引渡可申(ひきわたしもうすべく)追って相当可被差返事
第四ヶ(だいよんか)条(じょう)
城内住居之家臣共(かしんども)城外へ退き謹慎可罷在事(まかりあるべきこと)
第五ヶ(だいごか)条(じょう)
慶喜叛謀(はんぼう)相助候者重罪であると依って可被処(しょせられるべく)厳刑之処(げんけいのところ)格別之寛典を以て死一等
被宥之間相当之処置致し可言上事
但し万石以上は以て朝(ちょう)裁(さい)御処置被為在(あらせられ)之事
(又)
徳川慶喜奉欺罔(ぎもう)天朝之末終に不可言之所業に至り候段深被悩宸襟依之(これによって)御親征海路諸道
訳 深く宸襟(しんきん)を悩まされ
進軍之処悔(かい)悟(ご)謹慎無二念之趣被聞食(きこしめされ)被為垂皇(こう)愍(びん)之余別紙の通被仰下候(おおせくだされそうろう)条謹んで御請(おうけ)可有之候(これあるべくそうろう)
就いては本月十一日を期限とし各件処置可致(いたすべく)様御沙汰候事右日限既に寛(かん)仮(か)之御沙汰に候上は更に
嘆願(たんがん)哀訴(あいそ)等断然(だんぜん)不被聞食恩威(おんい)両立確乎不抜(かっこふばつ)之叡(えい)慮(りょ)に候速やかに拝み膺不可有異議(いぎあり)者也
五日徳川慶喜は家臣に諭す朝旨を遵奉(じゅんぽう)すべき事を以てする同十一日上野を去って水戸に往き天璋院(てんしょういん)夫人は一橋氏の第二静(せい)寛(かん)院(いん)宮(のみや)は清水氏の第二に退き同十二日徳川家に於て家臣の今春(こんしゅん)京都の事に関した者を処罰する
而して大総督宮は此月八日を以て駿府を発し十五日芝(しば)山(さん)内(だい)真乗院(しんじょういん)に着す同十八日将に入城するだろうとすると都下(とか)流言(りゅうげん)あり城中地(じ)雷(らい)火(か)を伏せると乃ち之を検査させる其事なしを見、同二十一日遂に入城した大総督本営を此(ここ)に置く是に於て乎関東宜しく平定に帰すべきものの如きも事実は之に反し物情(ぶつじょう)日に騒然である大総督府は×閏四月二日を以て江戸鎮撫を田(た)安(やす)中(ちゅう)納(な)言(ごん)に命じ中納言は旧幕の有司(ゆうし)と共に頻りに旗下の士を慰撫(いぶ)し事なしと
勉めているも更に其功を奏する初め慶喜が水戸に退くという日徳川氏軍艦を督府(とくふ)に納める事約の如く、しようと欲す会々風雨あり果たさず翌日旧幕海軍副総裁榎本(えのもと)釜(かま)次郎(じろう)(原注:武(たけ)
                                                                                揚(あき))等開(かい)陽(よう)丸(まる)以下八隻の軍艦を率いて
品(ひん)海(かい)を脱し房州(ぼうしゅう)館山(たてやま)に至り海陸両軍一同との名義を以て書を大総督府に上げて請う所あり書(しょ)意(い)江戸城は徳川家相続者が定まるに至るまで一時(いっとき)田安家に預ける事を請う相続は尾(び)州(しゅう)家(け)ではないと請う田安亀之助を以てする
ことを諷(ふう)し軍艦・鉄砲の納付(のうふ)は徳川家名の相続及び領地一定の後にすることを請うに他ならず十四日大総督参謀書(しょ)を田安中納言に与え榎本等請う所の無稽(むけい)を諭し速やかに約の如く軍艦・鉄砲を納付させる為に勝安房は
館山に至って諭す所あったでも未だ全く大総督府の命に応じること能わず大総督府亦勢い納付の命令を励行(れいこう)するに至らず⦅原注:四月二十八日富士山(ふじさん)・朝(ちょう)陽(よう)丸(まる)・翔(しょう)鶴(かく)丸(まる)・観光丸(かんこうまる)四艦の納付を了する勝海舟幕府始末に
曰く慶喜江戸を去って常陸(ひたち)水戸(みと)に入るや我軍艦悉く品川湾を発し安房(あわ)館山(たてやま)に走る官(つかさ)我に各艦召還(しょうかん)の前任を命ずる我乃ち追って艦に往き説く所あり之を引戻して返る然して後・其全数の半を以て納める然れども此諸艦(しょかん)は
後日再び品川を脱して函館に去るとあり但し納付の四艦、外の八隻を以て逃れたという後八月十九日榎本等が幕(ばっ)艦(かん)八隻を以て品川沖を脱するとき鎮(ちん)将(しょう)府(ふ)より管内(かんない)各藩(かくはん)に達し書中に「元来右船之儀始終(しじゅう)品川沖で碇泊(ていはく)有之(これあり)
主人慶喜謹慎之意を体(てい)し猥(みだ)りに揚碇仕間敷(つかまつるまじく)旨屹(きっ)度(と)御申上候(もうしあげそうろう)処右等妄動(もうどう)脱走致し」とあるのを見れば当時諸艦に対する朝権が甚だ薄弱であったと知るべし⦆而して各地の戦(せん)報(ぽう)は日に脱走兵を侮(あなど)るべからずと報じ
之に加わるに会津は早く已に奥州の一方で割拠(かっきょ)して兵を四(し)境(きょう)に備え奥羽諸藩の向背初めより甚だ明らかならず閏四月下旬に至っては遂に所謂(いわゆる)白石同盟というもの成り北越諸藩亦概(おおむ)ね奥羽諸藩に呼応して官軍に抵抗し
江戸市内に於ては彰義隊が上野山内で屯集するもの益々跋扈(ばっこ)し市民は三百年の統治(とうち)に慣(な)れ自ら新を忌(い)み、旧を慕(した)うという情あり人心愈々(じんしんいよいよ)危険に赴き日を経るに従う反抗(はんこう)趣味の新聞紙さえ続出し(原注:中外(ちゅうがい)新聞(しんぶん)
江湖(こうこ)新聞(しんぶん))は
仙台侯等の上書を載せて暗に薩長を嘲(あざけ)り私(し)心(しん)戦を好むと為し或は慶喜の諭す書中に「深い思召(おぼしめし)あって恭(きょう)順(じゅん)する」とあるは機を見て動くという意であると説いて人心を煽動(せんどう)している之に加わるとして関東の諸方面
物情猶(なお)騒然として総督府は宛も囲繞(いじょう)の中に在るという観あり朝威の発揮実に一大英断を待つものあり三条大監察及び軍防局判事大村益次郎東下の事あったでも蓋し之が為である(原注:事は別章に
詳しい)五月朔(ついたち)官軍の
一部進んで白河に入ったと雖も総督府は未だ手を奥羽に展(てん)ずること能わず既にして五月中旬彰義隊を撲滅(ぼくめつ)し関東各地の事亦既に後顧(こうこ)の憂(うれ)いなしに至ったのを以て岩倉兄弟を奥羽征討白河口正副総督に任じ(原注:
五月十八日任命六月七日願(ねがい)に依り免じられ正親町中将(おおぎまちちゅうじょう)之に代わる)六月に入り白河・平潟両方面より大いに奥羽征討の軍を進める而して越後口亦之と時を同じく大いに官軍の発展を見るに至る
余談 正親町中将  正親町公董(おおぎまちきんただ)

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