
25/07/2025
中国の首都である北京はその昔、日本列島の倭人と繋がっていた可能性がありました🫢無形文化伝承人を訪ねながら、北京を旅する中國紀行CKRM40号の特集は、『悠久の都、北京 〜形では無い文化伝承を求め、北の都をゆく』❗️
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北京といえば「北京原人」を思い浮かべる人もいるでしょうが、昔はこの北京原人が現代人の系譜と繋がっていないとされていたのですから、知識が年々、積み重ねられていることを実感します。私たちは繋がっているようで繋がっていませんし、同じようで同じではないことが沢山あります。それでも、大切にしたいと感じる文化が共通の人たちとでしたら、家族のようにもなれるもの。そんな文化が多くの人たちによって受け継がれ、守られ、進化を遂げてきました。
春秋時代において、後の戦国七雄に数えられる「燕」の首府である「薊城」があった地域は、現代では中国の首都である「北京」になっています。北京が統一王朝の都に定められたのは、モンゴル族王家による統一王朝、「元」の時代から。それ以前の「燕」の時代から「北魏」の時代までは、北京原人が発見された北京市房山区は、「聖聚」(聖なる町)と呼ばれていました。
燕には、日本との関連が窺える記録が残されています。日本の以前の国号は「倭」ですが、歴史上この「倭」の字が残された最古の記録として、「蓋國在鉅燕南倭北。倭属燕」という一文が残されています。これは、紀元前4世紀から3世紀頃にかけて成立したとされる、『山海経』「海内北経」の中にある「蓋國」の位置を述べた文で、「蓋國は大国である燕の南、倭の北にあり、倭は燕に属している」という意味。
蓋國の位置は明らかにされていませんが、当時の燕の南となると、西端の南には「斉」があったので、おそらくは東端の南のはず。燕の東端の南となれば、そこは朝鮮半島。燕に近い地域なら、現在の北朝鮮あたりだったのでしょうか。その南に倭があったようですが、北朝鮮の南となると、韓国のソウルあたりとも考えられます。ソウルはかつての、百済の首都であった漢城の地域。百済と倭の間の出来事は、『日本書紀』の中にいくつも記録されています。
『山海経』に書かれている倭と、当時の日本列島にいた倭人には、何らかの関係があったのでしょう。倭が燕に属していたとすると、北京の地理的環境と残された無形文化の伝承からも、倭と燕の繋がりを見出せるのかもしれません。今では「無形文化遺産」とされているものは、文化の形を生み出すことが出来る、人自身が受け継いできた知識と技術の枠組み。北京に残された無形文化遺産を、様々な歴史的事実を交えながら紹介させて頂きました。中國紀行CKRM的視点で進めた旅の記録を、ご高覧頂ければ幸いです。
春秋時代において、後の戦国七雄に数えられる「燕」。その首府である薊城があった地域は、現代中国の首都、北京にある。歴史上「倭」の字が残された最古の記録の一つとして、「蓋國在鉅燕南倭北。倭属燕」という一文...