
11/04/2022
少林寺
1500年の歴史を持った天下の名刹少林寺は、河南省の麓に位する。北魏の孝文帝は鮮卑族の出身だが、中原の黄河文明に憧れた人である。都を平城(山西省大同)から、河南省の洛陽に移した。太和19年(西暦495年)、インドの僧、を歓迎するために少林寺を建立した。その後、インドの達磨が嵩山の五乳洞の中で九年間、面壁して大悟したという。日本の画家「雪舟」(1420-1506)は、達磨と慧可の伝説に因んで『』を描いた。
隋の時代、文帝楊堅が仏経の信者で、少林寺に百頃(約660ヘクタール)の土地を賜った。隋の末期、河南省滑県の瓦崗軍の蜂起で、中原あたりは戦場と化した。少林寺の僧たちは戦火の巻き添えを食って武芸の稽古を始めたという。戦乱の中で、少林寺はほとんど全焼された。
伝説によると、唐の武徳四年(西暦621年)李世民(後の太宗皇帝)が、洛陽の反乱軍王世充に追撃された時、少林寺の僧十三人が棒を振り回して李世民を救ったという。その後、少林寺は唐朝の優遇を得て、僧侶の肉食が許された。
北宋の時代、少林寺は、僧侶2000人、蔵経一万巻の「天下一の名刹」としての全盛期を迎えた。
元の動乱の後、明朝、清朝に、少林寺の住職は皇帝の勅封を受けた。清の乾隆帝が少林寺を行幸し、この境内に泊まった。今の山門の額「少林寺」の書は乾隆帝の揮毫である。
少林寺の塔林に、日本人留学僧邵元が師匠菊庵和尚のために書いた「菊庵塔銘」の石碑がある。邵元は山陰道但州の正法禅寺の沙門で、後醍醐天皇嘉歴二年(1327年)に中国に渡来した。各地の仏寺を遊学し、1329年、山西省の五台山から少林寺に来た。彼は菊庵和尚の歓迎を受けて弟子入りをした。それから、毎日、邵元は菊庵和尚の指導の下で、禅を学び、武術、書道の稽古をしていた。
菊庵和尚が円寂した時、邵元は非常に悲しんで、師のために「菊庵塔銘」を書いた。
「生而不生、一漚泛于大覚海。滅而不滅、孤月朗于法性天……」
(わが師よ、生と死を超越して、一つのうたかたのように大きな悟りの海に浮かび、気高い孤独の月のように天に朗らかに輝いている……)
邵元は、二十年間の中国滞在の後、1347年、54歳の時に日本に帰った。京都の天竜寺、東福寺などに住んでいたという。
1991年から、毎年の9月10日――15日、鄭州で国際少林武術祭が行なわれる。各国の少林寺拳法の愛好者たちは、一緒に集まって武芸の試合と切磋琢磨をするのである。